散歩のBGMはドラマを彩ったハンバートハンバート「笑ったり転んだり」だ。温かいメロディーと日々の営みを慈しむ歌詞。まさに、トキとヘブンの慎ましい暮らしを象徴するような素晴らしい楽曲だった。これだけ口ずさんだ朝ドラ主題歌もそんなにないだろう。
妄想散歩に出かける前に、まずは『ばけばけ』がどんな作品だったかを振り返ってみよう。物語の舞台は明治の松江。没落した武家の娘で、怪談好きだった松野トキは、流浪の果てに松江にやって来た英語教師(実はジャーナリスト)レフカダ・ヘブンの身の回りの世話をすることに。言葉も文化も違う二人は、やがて怪談を通じて心を通わせ、夫婦になる。その後、名もなき人々の物語をトキが「怪談」としてヘブンに語り継ぎ、数々の「再話文学」が誕生する。日本の歴史だけでなく、民俗学、文学という視点でもとても興味深い作品だった。
トキとヘブンに、何度、泣かされたことか。笑わされたことか。トキの実の両親、雨清水傳(堤真一)、タエ(北川景子)、育ての親、松野司之介(岡部たかし)、フミ(池脇千鶴)、そしてヘブンの心の友、錦織友一(吉沢亮)も皆、個性的なで芯があり素晴らしかった。さらには、「サワー」ことおサワを演じた円井わんや、ウメを演じた野内まるなど、今後注目の若手女優が勢ぞろいしていたことも印象的。俳優陣が織りなすファニーで、時に切ない濃密な会話劇は、朝の15分間を忘れられない時間にしてくれた。人と話すひとつひとつの言葉の尊さと面白さを体現する、ふじきみつ彦氏の脚本にも魅せられた。
「父上はねえ、立ち尽くしちょるの」の現場へ。国宝の松江城
今回は実際に松江に足を運び、二人が歩いた場所を訪れる。まず目指すのは第1話から登場した松江城。江戸時代の天守閣が残るのは、姫路城や彦根城など日本国内でわずか12城しかなく、そのうちの一つで国宝に指定されている。旧体制の象徴にとどまらず松江では今も愛され続ける街のシンボルで、真横に島根県庁があることに驚いた。オープニングでも登場するたくさんの松に囲まれた城の周りを歩くだけで、当時の時代の鼓動を感じる。
第1話でトキの母、おフミさんがつぶやいた「父上はねえ、立ち尽くしちょるの」というセリフが実に印象的だった。そう、ここは司之介がまさに立ち尽くした現場でもある。『ばけばけ』は立ち尽くす人に向けられたドラマだった。司之介だけでない、マツもヘブンも、タエも錦織も、登場人物たちは時に立ち尽くし、盛大に取り乱した。みんな、弱い人間でも、立ち尽くす度に、強くなった。人のかっこ悪い部分までも上手に描き出し、細い幹がどんどん太くなっていく様を、描くような作品だった。松江城も明治期に一度は荒廃したというが、今は美しい天守閣が天高くそびえている。その雄姿を眺めていると、なぜか人の弱さ、強さ、そんな言葉を考えてしまった。
蛇と蛙が住んだ場所がまだ残っている。『ばけばけ』ファン必見の地
このお城の周りを反時計回りに歩いて行くと見えてくるのが塩見縄手というエリアで、江戸時代の面影が今に残され武家屋敷が並ぶ。二つ目の目的地『小泉八雲旧居』はこの一角にある。ここはヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーンが、トキのモデル、セツと新婚生活を送った思い出の場所。もともとは松江藩士・根岸家の武家屋敷だった場所で、ハーンは明治24年(1891)に約5カ月間ここで過ごした。ハーンの愛した家や庭はドラマの中でヘブンが過ごした場所そのものだ。当時のままの静謐な空気が流れており、ヘブンがトキから怪談を聞き取っている幸せな時間が、今もそこにあるかのように錯覚する。ナレーションを務めた蛇(渡辺江里子)と蛙(木村美穂)が住んでいたというのもこの場所。当時のままの姿で残っているということに感動する。
ちなみに隣には『小泉八雲記念館』がある。ラフカディオ・ハーンの人生を学ぶことができ、見応え満点だ。
- 入館料: 大人400円、小・中学生200円(小泉八雲記念館との2館共通券は大人800円、小・中学生400円)
- 開館時間: 9:00〜17:00(4〜9月は~18:00。受付は閉館30分前まで)
ヘブンが愛した寺は既に『ばけばけ』の聖地化。あの大亀を見に行く
『ばけばけ』を語るうえで、月照寺も必ず赴きたい場所だ。『小泉八雲旧居』から歩くと20分強の距離なので散歩にちょうどいい。松江藩主の菩提寺である月照寺は、ヘブンが大好きだった場所として描かれたが、 実際、ラフカディオ・ハーンが愛した寺として地元でも知られている。
ここには、ドラマを象徴する「大亀の石像」が鎮座している。夜な夜な城下町へ出て悪さをしたため、石碑を背負わされて封じ込められたという伝説を持つこの大亀は、ハーンの随筆にも登場した。『ばけばけ』の印象的なオープニングでも話題を呼び、僕が訪れた際も多くの観光客でにぎわっていた。大亀はもちろんながら『ばけばけ』に通奏低音として流れていた物静かさを感じられる古寺で、初夏に咲くあじさいも有名だという。今度はぜひ6月に訪れたいと思った。松江駅から来る場合はレイクラインという市営バスで20分、「月照寺前」下車してすぐだ。
- 拝観料:一般700円、小・中学生500円、未就学児無料、神仏霊場巡拝者500円
- 拝観時間:10:00~16:00(6月のみ8:30~17:30。入場は終了30分前まで)
トキとヘブンが眺めた宍道湖へ。「私もご一緒してええですか」
最後に足を運ぶのは宍道湖だ。トキとヘブンが見たあの風景をどうしても僕は見たかった。そう、ここは神回とうたわれた65話のラストシーンで二人が「散歩」した場所だ。
ヘブン:「サンポイッテキマス」
トキ:「あのー、私もご一緒してええですか」
ヘブン:「ハイ」
大橋を渡るヘブンにトキが呼びかけて、二人はお互いの気持ちを確かめ合った。そして、宍道湖へと向かい、夕陽がきらめく湖面を眺めたのだ。これは、朝ドラ史に残る名シーンだろう。主題歌が流れるタイミングも、年末最後の放送という演出も見事だったが、ここまで積み重ねてきた二人の関係性を成就させる、素敵な瞬間に視聴者は涙した。
あのシーンをクライマックスとした物語前半は二人の恋の話だったが、実は最後まで二人の恋や愛情が主軸だったのではないか。この作品では戦争も震災も大きくは描かれていない。その代わり、海外の人と結婚することの難しさや、人が人を好きなる道筋が丁寧に描かれた。ここまで主人公二人の恋愛にフィーチャーし続けた朝ドラは珍しい(もちろん“お仕事もの”要素はあったが)。けれど、視聴者は「恋愛もの」と誰も思っていないはずだ。僕たちが見ていたのはなんでもない二人の日常で、共に泣き、共に笑うことができるなんとも不思議な半年間だった。
実際に間近で見てみると宍道湖はとても大きい。せっかくなので、夕陽スポットといわれる場所に足を運んだ。夕暮れ前から湖面が実に美しかった。きらきらと輝く湖面は実にたおやかで優しい光を宿し、それを照らす太陽は実に力強かった。どちらがトキかヘブンか。日没が近づくとなんともいえない橙色が湖面に差す。65話で二人がたたずんだ、まさにあの光に包まれ、言葉を失った。
毎日難儀なことばかりで、日に日に世界が悪くなる。トキとヘブンが生きた時代も、多くの人はそう感じていたかもしれない。そして、今を生きる僕たちもそんな風に感じることは少なくない。でも、それでも……。なんとかこの人生を生きていこう、目の前の暮らしを丁寧に紡いでいこう。きらきらと光る湖面を眺めながら、そんなことを思った。
夕陽をひとしきり眺めた後、ハンバート ハンバートの曲を聴きながら松江駅に向かった。あ、松江でスキップをするのを忘れていた! それだけが大きな後悔。ありがとう、おトキちゃん、ヘブンさん。また、この景色を眺めに来るね。
取材・文・撮影=半澤則吉







