中々難しいと思うで、もう一枚ずつ、これはそれぞれ近くの城からの景色である。

一枚目は犬山城、二枚目は岐阜城からの眺めじゃ。

ここまできたらば分かる者も出て参ったのではないか?

答えは、

 

 

 

 

 

木曽川と長良川である! 尾張や美濃、伊勢や信濃、所謂東海地方に住んでおる者にはなじみ深い場所であるわな。

此度の戦国がたりの題目は「川」である。

それでは早速いざ参らん!!

木曽三川

なぜ川?

と思うた者もおるじゃろう、なぜかと申せばこの木曽川は我ら戦国武将、特に織田家にとっては良くも悪くも重要な地であるからじゃ。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』にて美濃攻めが長きにわたって描かれておったけれども、この美濃攻めに難儀したのはこの木曽川が一番の理由と申しても過言ではない!

いや、少し過言やも知れぬか、現世では暗君に描かれがちな斎藤龍興殿であるが、決して暗愚な当主であったわけではない。その若さ故に癖の強い美濃国衆に支持されなかったのじゃが、もし龍興殿がもう少し歳を重ねておったらば、織田家の美濃侵攻はさらに遅れておったであろうとも言われておる。

じゃが何にせよ、木曽川を越えて美濃へ出陣するのは川を渡るだけでも大戦、命がけの渡河で士気が下がったところを斎藤家の軍勢に突かれての敗戦は信長様の父・信秀様の代から幾度も起こったことであるわな。

因みに信長様について詳しく綴った『信長公記』では、「木曽川という大河を渡って」という表現が五回も使われておる(儂調べ)。

この書を記した太田牛一も苦労したんじゃろうな。

といった次第で此度は木曽川の話、先ずは東海以外に住む者のために木曽川とはなんぞや、といった話をして参ろう。

木曽川とは

木曽川とは、長野県から岐阜と愛知を通り三重に出て太平洋へと流れる大河である。

木曽川は愛知県と岐阜県の県境となっておって、さらに下流の愛知、岐阜、三重の県境にて長良川と揖斐川(いびがわ)と合流し、三本の大河が並んで流れ、実に雄大なる景色を作っておる。

川の長さは木曽川が229km、長良川が166km、揖斐川が121km。

日ノ本の川の長さ番付で申せば、7位、20位、47位じゃ!

木曽三川はその長さも日ノ本有数であるが、それ以上にその広さが特徴的である。

長良川や揖斐川を含めた木曽川水系の総流域面積は約9100平方km、日ノ本5位で屈指の大河であるといえよう。

現世において木曽三川は確と区別され、尾張から伊勢へ参るおりには見る者の視線と心を奪う広大で美しい景観となっておるで、訪れたことがない者は伊勢参りの途上にでも訪れてほしいのう!(脇見運転とならぬよう注意するようにのう)。

じゃが! 我らの時代は斯様な美しい姿ではなかった。

この地で合流した木曽三川は入り乱れる形で流れておって、そもそも三本の川の姿を保ってはおらんかったのじゃ、その膨大な水量から頻繁に洪水が起こり、その度に川の形が変わったために独特の網目状の地形となっておったのじゃ。

川に囲まれた島と中州の中間のような地形は輪中(わじゅう)と呼ばれ木曽三川の中に80以上もあったと伝わっておる。

輪中というのは島の輪郭に盛土をして堤防としておったことから、輪の中が転じて輪中と呼ばれたようじゃな。

さて、ここで再び問題じゃ!

織田家が最も難儀した敵は誰であろうか?

信長様の天下取りを最も遅らせた浅井・朝倉か、毘沙門天の化身が率いる上杉か、日ノ本最強の呼び声高い武田、或いは織田家最大の窮地を呼んだ今川であろうか。

どれも無論正しいのじゃが、儂は長島一向一揆であると思うておる。

長島とは三重県北東部に位置し、尾張から木曽川を挟んだ向かい側にある地域じゃ。現世においては木曽川と長良川に挟まれた細長く延びた地形になっておる。

現世ではナガシマスパーランドやなばなの里やら数多の観光地が立ち並ぶ場所じゃな。

この地で起こった一向一揆との戦いは正にこの木曽川と輪中が戦の舞台であったのじゃ。

浅井・朝倉との戦にかかりきりな信長様の隙をついて長島城に入った一向衆はこの城を拠点に織田家への攻撃を繰り返した。

始めに尾張西端、小木江城を攻め、守っておられた信長様の弟君・信興様を自害に追い込むと織田家重臣・滝川一益殿を敗走させ輪中を支配。

信長様が自ら赴いた第一次長島攻めでは、数多の鉄砲と賢しい伏兵戦術を用いた一向衆によって柴田勝家様が負傷、変わって撤退のしんがりを務めた氏家卜伝殿や蜂須賀正元が討ち取られておる。

一揆と聞くと農民たちの反乱のように感じるかもしれんが、この一向一揆は他の大名家の支援により潤沢なる軍備と巧みな戦法を用いた大戦であったのじゃ。

さらに問題であったのが、やはりこの地形であるわな。

我らの時代、城造りおいては自然の要害を用いるのが肝要であった。

急峻な崖を用いたり、細い尾根を用いて敵の進軍を遅らせたり、そして川や湖を堀として敵方を近寄らせぬようにしたり、じゃな。

さて、此度の記事を振り返って参ろう。

長島の地は輪中と呼ばれる島とまでは呼べない大きい中州のような地形が網目状の川に囲まれて数多点在しておるわな。斯様な地形は大軍を動かしにくいのじゃ。

しかも、囲む川は日ノ本でも有数の大河である。

美濃攻めの折に木曽川の中流ですら渡河に難儀しておったがここは川の下流、さらに川の勢いは増し、幅が広くなっておる。

長島は自然の要害の最強版とも言えよう。

大軍で押し潰すわけにもいかず、川を渡っておる間にも敵から集中砲火を浴び、後回しにしたくとも目の前に陣取る一向衆を放置しておったら尾張を奪われかねぬ。実に難儀な相手であった。

第二次長島攻めにおいては戦況を有利に進めるも、渡河に必要な舟が十分に集まらず撤退。しんがりを務めた林通政殿が討死。

第三次長島攻めにて12万の大軍でついに壊滅させるも(一向衆も10万の大軍であったのじゃが)、敵方の猛攻撃により信長様の叔父・織田信次様や弟・信広様、秀成様、重臣の佐治信方様や平手久秀殿、そして佐々成政の嫡男・松千代丸のほか信長様のご親族が幾人も討死。

織田家の合戦で将の討死が最も多かった戦がこの戦いであった。

終いに

此度は木曽川と織田家について語ってまいった。

木曽川は日ノ本でも随一の危険地帯、我ら武士も然りであるが、民も大いに難儀しておった。

信長様の死後に木曽川は大氾濫を起こし流れを大きく変え、それを元に秀吉が治水工事を行ったのが今の木曽川の原型となっておる。

その後も江戸時代の初めに尾張徳川家が大工事を行い、江戸中期には薩摩藩士によって行われた宝暦治水に木曽三川が3本の川に分かれる原型を作り、明治時代に異国から呼び寄せた技術者によって今の完全に別れた木曽三川が完成したというわけじゃ。

無論、木曽川は幾度も氾濫し田畑や城を沈ませた恐ろしい力を持っておるけれども、同時にこの土地を豊かにした。

木曽川の恵みによって尾張と美濃に広がる濃尾平野は日ノ本でも屈指の実に豊かな土地となり、この地域だけで四国全体と同じ石高を誇ったのじゃ。

織田家躍進にも大いに関わっておるといえよう!

さて、此度も随分と長なったのう!

これにて戦国がたりは終いといたす。

皆も自らが住まう地域の川や地形について調べてみればきっとおもしろき発見があるであろうから挑んでみるが良いぞ!

それではまた会おう。

さらばじゃ!!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)