結解喜幸(けっけ・よしゆき)
1953年、世田谷区北沢生まれ、川崎市多摩区在住の旅行写真作家。鉄道雑誌・書籍・MOOKなどを執筆。日本の鉄道の原風景が今も残る台湾の魅力に引き寄せられ、訪台歴は350回を数える。
鉄道少年を育てた小田急線の跨線橋
自宅が下北沢南口商店街の中にあったことから、小田急線と井の頭線の電車を見るのが日課であった。
小学1年生の頃に小田急線のホーム延伸工事があり、井の頭線の線路に並行して踏切が跨線橋となった。ここが井の頭線と小田急線の電車が同時に見られる絶好の電車鑑賞スポットとなり、日課のごとく小田急の特急ロマンスカーや井の頭線のステンレスカー(1962年登場の最新鋭)を見に行った。ただでさえ電車が好きだった少年の心に油を注ぐことになり、やがて全国の鉄道を旅する下地が育まれたようだ。
下北沢~世田谷代田間には5つの踏切があったが、のちに跨線橋になった1番目と2番目の踏切は警報機・遮断機のない危険なところだった。下北沢~世田谷代田間は見通しが悪く、電車の接近に気がつかないこともあり、事故も多発していたため、3番目の踏切脇には「お地蔵様」が祀られていた。踏切がなくなった現在でもその場所にあり、小田急線の線路と踏切があったことを知ることができる。
現在の下北沢駅からは想像もつかないだろうが、駅舎は小田急線の線路を跨ぐように設置されていた。北口と南口から階段を上がると駅事務所と改札口(井の頭線と共用)、そして「箱根そば」の店舗があり、駅でアルバイトをしていた学生時代は“コロッケそば”が朝食であった。今のようにコンビニや手軽な立ち食い飲食店がなく、下北沢では「箱根そば」一択であった。
また、小田急線の地下化直前に有名になった鉄道名所に、下北沢~東北沢間の「開かずの踏切」があった。南口と一番街商店街を結ぶホーム隣接の踏切で、朝夕の通勤・通学時間帯を中心に電車が数珠つなぎとなって通行を妨げていた。
北口と南口をつなぐ通路は駅舎のみであった。70年以上前に下北沢に住んでいた人は覚えているかもしれないが、北口と南口をつなぐ地下道が設置されていた。古くからあったようだが、私が小学生の時には出入り口が木の柵で塞(ふさ)がれ、肝試しと称して隙間から中に入って遊んで記憶だけがある。南口は井の頭線のガード下、北口は北口駅前食品市場の一角だったと思う。
下北沢の坂と路地と通学路
昭和2年(1927)の小田急線開通後、私の祖父は東京・麹町から現在の世田谷区北沢へと移り住んできた。駅から徒歩2分と便利なこと、そして閑静なところが気に入ったとのことだった。移り住んだ当時は駅から自宅まで1軒の家しかなく、周囲は竹藪と雑木林だったという。
この付近の中心地は北沢八幡宮(北澤八幡神社)や森巖寺のある代沢で、父はその中心地にある代沢小学校に入学した。明治13年(1880)開校という歴史ある公立小学校で、私が入学した時は父が学んだ木造2階建て校舎が残り、卒業時には鉄筋コンクリート造の校舎も完成したが、現在はすべての校舎が新しくなっているようだ。
下北沢に住んでいた時に感じたのが、坂道の多さだった。井の頭線の池ノ上駅と小田急線の東北沢駅が丘の上に位置し、井の頭線は土盛りをした築堤の上を進み、下北沢で小田急線を跨いでいた。
井の頭線の駅舎(西口)があるところも頂の一角で、代田二丁目駅(現在の新代田駅)に向かって坂を下る。茶沢通りが底辺にあり、左右の路地はいずれも坂道につながっていた。
南口商店街の坂を下りたところにある自宅から代沢小学校へは、茶沢通りを歩くのでほぼ平坦だったが、富士中学校は代沢から三宿、目黒区の駒場にかけての地にあり、池ノ上まで急坂を上がり、再び三宿に向けて坂を下るという山越えの通学路であった。今にして思えば、毎日が足腰の鍛錬であった。60年前に通った道を歩いてみたが、途中で息が切れて喫茶店で休憩することになった。
三軒茶屋と下北沢を結ぶことから「茶沢通り」の名称が付いているが、私が子供の頃は単に「バス通り」と呼んでいた気がする。当時は新宿(伊勢丹前)~幡ヶ谷~東北沢~下北沢~三軒茶屋を結ぶ路線バス(小田急バス・京王バス)が運行されており、伊勢丹に行くときは利用することが多かった。下北沢~東北沢間の道路はバス1台が通る幅しかなく、途中に行き違いできる待避所が設置されていた。運悪くバスが出会ってしまうと、待避所まで近い方のバスがバックした。当時は車掌が乗務しており、笛を吹きながらバックオーライと誘導したのをよく覚えている。相手が車の場合はバス優先で車がバックする義務があり、バスに乗っていた私はなぜか優越感に浸れるひと時だった。
下北沢が商業地域・住宅地と発展したのは、第二次世界大戦で戦災にあわなかったからだ。
私の自宅を含めて商店やその裏にある住宅が戦前のまま残り、戦災で焼きだされた近隣の住民が移り住むようになった。道路を整備する間もなく空き地には住宅が建てられ、車が通れないような細い路地が縦横に張り巡らされた。下北沢の道路拡張の計画は戦前からあったのだが、家が密集して手が付けられなくなっていた。代沢三差路から南口商店街入り口までの道路が異様に広いのは、道路拡張が一部だけ行われた名残だ。あの幅で駅前まで拡張計画があり、私の自宅も約100坪のうち20坪ほどが道路になる計画であったという。
普段着の商店街から若者の街へ
大阪・千里丘で万国博覧会が開催された1970年頃までは、下北沢は生活に密着した普段着の商店街であった。北口にあったトタン屋根のかかる「下北沢北口駅前食品市場」は、戦後の闇市を彷彿させる約70店舗の食料品店や衣料品店、雑貨店がひしめき合う市場で、舶来の缶詰やお菓子を売る店もあった。2階に住居のある商店もあったが、1~2坪の店頭に商品を並べただけの店が多かったと思う。すぐ目の前に都市銀行や下北沢初のスーパーマーケット、老舗洋食店、映画館などがあり、北口駅前は近代的な建物とバラック風の市場が対照的な光景であった。
南口駅前は交差点スタイルで、南に坂を下る下北沢南口商店街、東に坂を下ると茶沢通り、北に進むと踏切を渡って下北沢一番街、西に進むと跨線橋を渡って井の頭線の駅舎(西口)に出た。商店街には薬屋、眼鏡屋、時計屋、写真屋、おもちゃ屋、下駄屋、文房具屋、洋菓子屋、パン屋、電器屋、歯科、医院、本屋、お茶屋、そば屋、古本屋、金物屋、木工・材木屋、洋品屋、乾物屋、肉屋、八百屋、魚屋、果物屋、判子屋、靴屋、中華そば屋、寿司屋など、日常の生活に必要なものを売る個人商店が軒を連ねていた。当時は「○○屋」と呼ぶことが多く、「○○買いに○○屋まで行ってくる」と買い物に出歩いていた。私の自宅前のそば屋「砂場」は戦前に店を構えた古参、自宅斜め前の「クレジットの丸井」(丸井の当時の呼び名)下北沢店は南口唯一の大きなチェーン店だった。
主婦が割烹着を着て買い物をする普段着の商店街が変わり始めた当初は、商店街の中の店ではなく、路地にオープンしたリサイクルショップ(家電や家具・古着)や若者をターゲットにした音楽喫茶店であった。タウン情報誌が創刊される頃には「若者の街」「ファッションタウンしもきた」などと呼ばれるようになり、商店街の中の店の構成が変わってきた。それまで8割方の店の経営者は誰か知っていた(小学校の同級生や後輩の家)のだが、1970年代の後半になると廃業して郊外に移り住む家が多くなり、若者向けのファッションや音楽、演劇、さらに居酒屋、パブ、ラウンジなどの飲食業などが展開されるようになった。
今でも下北沢の街歩きをすることがあるが、小田急線の地下化で誕生した土地以外は70年以上も区画整理がされていないため、すべての路地がどこに通じているかよく分かる。当時は民家しかなかった路地に洒落(しゃれ)た店が立ち並んではいるが、半世紀前の情景は今でも脳裏に焼き込まれている。
以前、自宅の近くのビル地下にあるバーに足を踏み入れたが、そこにいたバーのママは小学校の同級生。フルネームで「○○さんですか」と尋ねたら、「私の知り合いですか」と目を丸くされた。大きく変化した街の中に昔の私の居場所が残っていたのが何よりもうれしかった。
文・写真=結解喜幸






