80年前の小説でも、京都の街並みが生き生きと浮かぶ/織田作之助『それでも私は行く』
「聖地巡礼」という言葉がある。
もともとは宗教の聖地に詣でることを指したが、現在はアニメや漫画の舞台となった地をめぐる行為も指す(ここでは後者の意味だ)。
思春期をオタクとして過ごした者の例に漏れず、僕も聖地巡礼をしていた。
小学生の頃に金曜ロードショーで見た『耳をすませば』に心惹(ひ)かれて親に聖蹟桜ヶ丘まで車で連れて行ってもらったのがその最初な気がする。もう少し重症になると、『相棒』にハマったとき杉下右京のコスプレをして警視庁まで行ったし、『STEINS;GATE』を見たら普段行っている秋葉原が聖地に早変わりして妙にドキドキした(ついでに世界線が変わったことで中野がオタクの聖地になったのも妙にリアルで、中野ブロードウェイのさらなるにぎわいを夢想した)。
中でも、森見登美彦作品にハマって、足繁く京都に通ったのは懐かしい。なんでもない路地を一生懸命歩いてタヌキがいないかを探った。
2018年に刊行された『熱帯』では、東京も舞台になったために、森見好きの仲間たちと一緒に、どこがモデルになったのかを一生懸命探し歩いた(その中の物好きな一員が聖地をまとめたZINEを作っていた)。
以上は主に現代のコンテンツを例に挙げたが、もちろん近代文学や古典文学の聖地巡礼も忘れてはいけない。
例えば森見登美彦つながりで、京都を舞台にした小説を紹介したい。
織田作之助『それでも私は行く』という作品だ。
その隙に鶴雄はさっさと路地を出て行ったが、四条の電車通りを横切って、もとの「矢尾政」今は「東華菜館」という中華料理店になっている洋風の建物の前まで来ると、急に立ち停った。
四条通りを東へ行くか、西へ行くか、ふと迷ったのだ。
「女に会いに行くんだ」
と、鶴雄が君勇に言ったのは、君勇をまくための咄嗟の言い逃れだったが、しかしまるっきり嘘でもなかった。
東へ行けば円山公園、そこでは矢部田鶴子が、鶴雄の来るのを首を長くして待っている筈だ。
(織田作之助『それでも私は行く』)
先斗町(飲屋街)で生まれ育った京大生・梶鶴雄は、そのあたりでは知らぬ者もいないイケメンで、彼を中心にしながら戦後に生きる女性たちを描く群像劇だ。
京都の街並みが具体的にリアルに描かれる。先に引用した『東華菜館』は、今も営業している中華料理の老舗で、森見登美彦作品でも印象的に描かれている。
約80年前に書かれた小説ながら、こんなに生き生きと京都の街並みが浮かぶのはうれしい。
西行、芭蕉、大宰……時間を超えて、そこに文脈が生まれる
京都は歴史のスケールがもっと大きい。
森見登美彦、織田作之助を超えて、数百年前、一千年前の作家たちが同じ地にいたかもしれない。
例えば僕が敬愛する歌人に西行という人物がいる。平安時代の末期を生きた人物で、当時は源氏と平家の騒乱という混乱期にあった。
そんな時代にありながら、西行は伊勢や讃岐、果ては東北にまで足を延ばした。特に東北には20代の頃に一度、そして69歳の頃にもう一度、あわせて二回も旅をしている。
現在でも70歳といえばそれなりに高齢だが、当時の70歳と言えば相当な高齢だったはずだ。
その道中、静岡県にある小夜の中山へと足を踏み入れる。急峻な坂道で知られ、東海道の中でも三本の指に入る難所と言われていた。
そこで西行は次のような歌を詠んだ。
年たけて また越ゆべしと 思ひきや いのちなりけり 小夜の中山
(年を経て、また小夜の中山を越えられるとは思わなかった。これも命あってのものだ。)
さきほど述べた通り、西行にとってはおよそ4、50年ぶりの再訪となる。
たった30年ほどしか生きていない僕のような若輩者ですら、20年ぶりくらいに子供の頃住んでいた町を訪れると、懐かしさに胸がいっぱいになる。
西行にとっては懐かしさに加えて、おそらくこれが最後の東北への旅だという思いがあっただろう。
そんな万感の思いが込められた「命なりけり」だ。
ところで、同じく小夜の中山にて「命なりわづかの笠の下涼み(笠で隠れたわずかな一隅の涼しさが、私の命のようなもの)」という俳句も詠まれている。
作者はかの松尾芭蕉。
一読して分かる通り、「命なり」という明らかに西行を意識したであろう詩句が込められている。
それもそのはず、芭蕉にとって西行は最も敬愛する詩人の一人で、かの『おくのほそ道』は西行の足跡をたどる旅、いわば西行の聖地巡礼だった。
考えてみれば、人々が時間を超えて訪れ、そこで和歌を詠む聖地があった。
これを歌枕という。
「まくら」という言葉の語源には諸説あるが、能楽師の安田登が次のように述べている。
「まくら」はもともと「真の倉」で、巫女が神からのお告げを受け取るために寝る倉(場所)だった。そこからやがて倉(建物)ではなく、寝る際に頭に敷く寝具を指すようになったという。
つまり神の力が宿る、すごい場所や物、それが枕なのだ。
となると、歌枕も単なる名所という以上に、人々を惹きつける力がある。
確かに歌枕には、山や川などの大自然が多く、そこに行くだけで不思議な気持ちよさがある。
それに加えて、かつて先人たちが訪れたのだろうという、時間の蓄積もパワーを添えられている。
太宰治『富嶽百景』という富士山を描いた小説では、まさに西行、そしてさらに先行する能因法師という僧侶について、冗談混じりに語られる一節がある。
墨染の破れたころもを身にまとひ、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼつて来る五十歳くらゐの小男がある。
「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」私は、その僧をなつかしく思つた。「いづれ、名のある聖僧かも知れないね。」
「ばか言ふなよ、乞食(こじき)だよ。」友人は、冷淡だつた。
「いや、いや。脱俗してゐるところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるぢやないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作つたさうだが、――」
私が言つてゐるうちに友人は、笑ひ出した。
「おい、見給へ。できてないよ。」
能因法師は、茶店のハチといふ飼犬に吠えられて、周章狼狽(しうしやうらうばい)であつた。その有様は、いやになるほど、みつともなかつた。
「だめだねえ。やつぱり。」私は、がつかりした。
(太宰治『富嶽百景』)
西行、そして能因がここを旅したという史実を踏まえた上での軽口だ。
これも聖地がなせる技である。
散歩をして、どこかに行く。
そこに刻まれた言葉や歴史を知る。
そうすると、そこには文脈が生まれる。
その文脈に生きるのが、聖地巡礼の醍醐味だろう。
作家たちが散歩の良き同伴者になってくれる/永井荷風『日和下駄』
ここまで東京以外の地が描かれた作品を紹介してきたが、最後に東京も挙げておこう。
ご登場願うのは永井荷風である。江戸を哀惜していた永井は、東京に住みながら、江戸の残り香を余さず嗅ぎ取ろうとしていた。
東京をめぐる『日和下駄』を読むと、東京を無性に歩きたくなる。例えば上野についてのこんな一節。
不忍池は今日市中に残された池の中(うち)の最後のものである。江戸の名所に数えられた鏡(かがみ)ヶ池(いけ)や姥(うば)ヶ池(いけ)は今更尋(たずね)る由(よし)もない。浅草寺境内(せんそうじけいだい)の弁天山(べんてんやま)の池も既に町家(まちや)となり、また赤坂の溜池(ためいけ)も跡方(あとかた)なく埋(うず)めつくされた。それによって私は将来不忍池もまた同様の運命に陥りはせぬかと危(あやぶ)むのである。老樹鬱蒼として生茂(おいしげ)る山王(さんのう)の勝地(しょうち)は、その翠緑(すいりょく)を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう。都会は繁華となるに従って益々自然の地勢から生ずる風景の美を大切に保護せねばならぬ。都会における自然の風景はその都市に対して金力を以て造(つく)る事の出来ぬ威厳と品格とを帯(おび)させるものである。巴里(パリー)にも倫敦(ロンドン)にもあんな大きな、そしてあのように香(かんば)しい蓮(はす)の花の咲く池は見られまい。
(永井荷風『日和下駄』)
都市は、ビルによってのみ成り立つのではない。
永井の生きていた頃に比べて、上野もずいぶんと変わってしまったが、それでも不忍池は静かに雄大なままで、蓮の花も咲いている。
不忍池を散策するとこの一節が思い浮かび、荷風の下駄がからからと聞こえてくるような気がする。
アニメや映画といった映像作品の聖地巡礼と、文学の聖地巡礼には、違いがあると思う。
映像作品の場合は、作品に描かれていた様がそのまま現実にあることを喜ぶ。言うなれば再現性の感動である。
一方で、文学の場合は文字という制約から、そのまま現実を写し取るのは不可能だ。しかしその作家が、その場所をどのように受け止めたか、という感性や感想を分かち合うことができる。眼差しの共有である。彼らがどんな風にその土地を見たか、教えてもらえっているような気持ちになれる。
だから文学を持ち歩く聖地巡礼は、その作家たちと散歩できるような気持ちになる。
ぜひ言葉を持って、散歩に出かけよう。
作家たちはあなたの良き同伴者になってくれる。
出典一覧
織田作之助『それでも私は行く』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47287_42544.html
太宰治『富嶽百景』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html
永井荷風『日和下駄』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49658_37661.html
文=渡辺祐真/スケザネ 写真=PhotoAC





