レトロ感と清潔感を両立した、カジュアルな酒場
東京都有数の繫華街であり、文化や流行の発信地でもある渋谷には、さまざまな側面がある。中でも、若者の街という印象は強く、1979年に開業した商業施設「SHIBUYA109」は、今も昔も渋谷のランドマークだ。
渋谷駅から「SHIBUYA109」方面へ向かい、道玄坂との分かれ道を右へ。文化村通に面したビルの一つに、真っ赤な看板と赤提灯が掲げられているのが見える。そのビルの4階にあるのが、1982年から渋谷に店を構えている『居酒屋 千』だ。
ちなみに「SHIBUYA109」と渋谷駅は地下通路でつながっており、出口A2から地上に出れば、同店のビルは目と鼻の先だ。ほとんど屋外を歩かなくて済むアクセスのよさは、うれしいところ。
外の看板と同じく赤色で統一された出入り口から、どこか昔懐かしさが漂ってくる。そして店内は、大衆居酒屋チックな空間。壁には手書きのお品書きやレトロなポスターが貼られ、窓際の席には提灯が吊るされている。
「老舗っていうと入りづらいイメージなのかな、と思いますけど、若い方もたくさん来てくださるし、初めてのお客さんもウエルカムです」
そう語るのは、創業者である父親から同店を引き継いだ、女将の永澤由紀さん。たしかに装飾は、頑固オヤジが営む昔ながらの飲み屋のよう。一方で、店内はオープンして間もないような清潔感に満ちている。誰でも気兼ねなく利用できるカジュアルな雰囲気だ。
「新規のお客さんと常連さんの比率は半々か、ひょっとしたら新規の方のほうが多いかもしれないですね。ネット予約で席が埋まっちゃうときもあるので」
ネット予約のみならず、同店では2024年4月から二次元コードを用いたモバイルオーダーを導入している。これなら混雑時でもスムーズに注文可能だ。また、これまでどおり店員さんに直接オーダーしてもOK。昔からの常連客と若い新規客の両方に配慮した、レトロでモダンな居酒屋なのだ。
甲乙つけがたい、個性豊かな名物料理3品に舌鼓を打つ
かつてのテイストを残しつつ、現代的なアップデートも取り入れていくのが『居酒屋 千』のスタイル。料理にもまた、創業当時からある名物と、時代に合わせて生み出された看板メニューがある。
永澤さんにイチオシの料理を伺うと、アジ刺身(丸ごと一尾)935円、炙り白レバー605円、トンバンバン660円が候補に挙がった。せっかくなので、今回は3品すべてを用意してもらうことに。
「アジ刺身は、丸ごと1匹なのでボリュームがあって、お刺し身の中でもいちばん人気」と永澤さん。
「日によって大きさや産地、値段が変わります。魚屋さんから安く仕入れられたときは、ちょっと値段を下げちゃいますね。お刺し身系はとくに、なるべく新鮮なものをお出ししたいので。あとは食品ロスをなくしたいから、っていうのもあります」
2品目の炙り白レバーは、中まできちんと火を通した鶏のレバーだ。このメニューが生まれた背景には、2011年に起きた牛レバ刺しの食中毒事件があった。
「ウチはもともと、和牛レバ刺しがすごい人気だったんですよ。でも2012年以降、牛レバ刺しが禁止になっちゃったじゃないですか。じゃあそれに代わるものを、ってことで白レバーを入れました。鶏に変わりましたけど、皆さん『フォアグラみたいでおいしい』って言ってくださいます」
続いて3品目はトンバンバン。永澤さんの父親が考案したこのメニュー、ちょっと変わったネーミングだが、どんな料理なのか。
「豚バラ肉を蒸して、豆板醬を使った自家製辛味ソースをかけたメニューで、めっちゃ人気です。レシピや材料は、当初から変わっていません。昔を知っているお客さんが『あ、まだこれあるんだ』って注文してくださるので、これからも残しておかないとね」
トンバンバンの“トン”は、豚肉が由来だろうと想像はつく。では“バンバン”とは何かを尋ねると、永澤さんは「たぶん豆板醬の“バン”だと思うんですよ。棒棒鶏(バンバンジー)ではないんです」と笑う。ちなみに同店の名物メニューの中には、エッグトーバン594円という卵料理があり、こちらも豆板醬のタレで味付けしたものだ。
料理3品がそろったところで実食へ。まず、ほどよく脂がのった新鮮なアジ刺身は、とろけるような食感で、旨味たっぷり。これはスッキリとした日本酒がとくに合いそう。しっとりなめらかな舌触りの炙り白レバーには、日本酒や焼酎がマッチする。レバーが苦手な人でもハマるほどクセがなく、噛むと口の中で溶けていく。
そして豆板醬を効かせたトンバンバンは、角煮を思わせる柔らかい肉質。始めは甘辛く、あとからじんわり広がる辛さに食欲を刺激される。ビールがほしくなること間違いなし。
たどり着いたらホッとする、渋谷のオアシス的存在
永澤さんのご両親が、渋谷で『居酒屋 千』を始めたのは1982年。当時の店舗は明治通り沿いにあったが、ビルの立ち退きで現在の場所に引っ越してきたのは2014年のこと。
「もともと、いつかはお店を継ごうかなと思っていて、2006年頃から私と主人がお店を手伝うようになりました。2015年ぐらいに父と母が引退することになったタイミングで、主人が会社を辞めて引き継いで。でも2020年に主人が亡くなったので、いまは私が引き継いでいる、っていう感じです」
お店を引き継ぐまで、永澤さんには店舗経営の経験がまったくなかったため、コロナ禍の休業中に猛勉強した。
「コロナの休業のあと、主人がいたときからのスタッフの皆さんが戻って来てくださったんです。周りの皆さんが助けてくださるので、なんとかうまくまわるようにはなってきたのかな(笑)」
コロナ禍を乗り越えたいま、永澤さんが目指しているのは「ここに来るとホッとする、オアシスみたいな感じ」だという。
「コロナ以前は、お客さんが回転するように2時間半制でやっていたんですけど、コロナ明けからは席の時間制限を廃止しました。2次会のお店を探すのは大変だと思うので、ご予約がバッティングしない限りは、開店から閉店までいてくださって構わない。5~6時間いてくださるお客さんも結構いますね」
座席の時間制限がない代わりに料理のラストオーダーは早め。だが、そのあとも枝豆363円や、たこわさび396円などの「すぐ出る! おつまみ料理」なら注文できる。そのため軽く飲み直したい2次会利用にもぴったりだ。
時代の流れに乗るべきところは柔軟に対応しつつ、お店のイメージは変えない。この絶妙なバランス感覚が、一見さんと常連さんの両方を虜(とりこ)にする居心地のよさを生む。こんなお店が近所にあったら、閉店まで居座っちゃいそうだ。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=上原純