石井 赤瀬川さんは前衛芸術家として活動していた頃から路上をパフォーマンスの舞台にしていました。その後は有名な「千円札裁判」も経て、作家性よりも匿名性の強い活動へと移ります。その中で「路上は作品の舞台ではなく、作品そのものが路上にある」という視点が生まれ、超芸術トマソンや路上観察学会につながっていったと思うんですよね。これは僕が大学の卒論で書いたことなんですけど(笑)。
内海 赤瀬川さんの超芸術は、まさにその視点が衝撃的だったんですよね。
――超芸術は街なかの無用の長物をその非実用性ゆえに「芸術以上に芸術らしい」とした赤瀬川さんの概念ですね。内海さんはさまざまな路上観察的な活動を行っていますが、いつ赤瀬川さんに興味を?
内海 20代の後半です。当時は個人ホームページが全盛期の90年代後半。「誰にも頼まれてないのに好きなものを紹介するサイト」が世界中で作られていましたが、そこには路上観察的なものもたくさんありました。僕はその頃から赤瀬川さんの著作なども読むようになりました。ただ、当時も今も「路上観察的なことをしている人」のみんなが赤瀬川さんを経由しているかというと、そうではないだろうなと思います。影響を受けている人もいれば、赤瀬川さんを知らない人もいるでしょう。
カメラ付きケータイやSNSで記録・共有のコストが下がった
石井 そもそも路上観察は今和次郎(こんわじろう)の考現学の影響を受けています。考現学は都市の生活・風俗を細かく記録する学問ですが、カメラ付きケータイの普及以降は「路上で面白いものを記録すること」が生活の一部になりましたよね。だから路上観察をごく普通にする人が増えたのかなと思います。
内海 昔は写真での記録にはフィルムカメラと現像が必要でしたからね。その手間が消えたうえ、近年はスマートフォンとSNSの普及によって、共有のコストも格段に下がりました。今はハッシュタグで各々の路上観察のジャンルを一望できますし、タグを付けて投稿すれば参加もできますから。
石井 記録法がスケッチだった考現学の時代からは、すごい進化ですよね。赤瀬川さんはカメラのスケッチもしてましたけど(笑)。でも、その行動は赤瀬川さんの面白さの象徴だと思います。赤瀬川さんには「見ている自分を見る」視点があるし、観察する路上の対象を偏愛しているわけではないんです。
内海 その姿勢は僕もしっくりきます。僕は「街で興味のあるものを見つけましょう」という言い方には違和感があって。見ることが先にあり、見続けることで面白くなる、と思っています。
石井 あと赤瀬川さんの「人が見えていないものを見る」という行為は一種の反乱。思想のテロリスト的なところもある。だから千円札を模した作品で裁判沙汰になったりするんです。赤瀬川さんは「いろいろな人に記憶だけで千円札を描いてもらう」という連載もしていましたが、千円札って誰も描けないんですよ。誰もがほしくて、毎日触れているものですら、実は誰もちゃんと見ていないことを暴いたんです。
――今の話で内海さんの「あらゆる街は観光地だ」という言葉を思い出しました。
内海 遠くへ旅行するのも面白いですが、僕は近所を歩くのも同じくらい面白い。「見たことのあるものを、もう一度見ようとする」というのが僕の好奇心にもとづく行動で、それは赤瀬川さんもしてきたことだと思います。先ほどの千円札の話と同じで、みんな家の近所の風景ってきちんと見てないんですけど、例えば「今日は建物の外壁タイルをスマホで撮りながら散歩しよう」みたいにテーマを決めて近所を歩けば、新しい発見があるはずです。
石井 あと赤瀬川さんがすごいと思うのは、トマソンという概念を独占せず、美学校の生徒と街を歩いて探したり、投稿を募集したりしたこと。その結果、路上観察は赤瀬川さんについて深く勉強しなくても、誰でもインストールできる開かれたものになりました。
内海 赤瀬川さんが提示してくれた目線は、今はSNSの中の都市鑑賞・路上観察系のタグをいろいろ検索して見てみれば、「街なかのこれをこうやって見たらいいんだ」と理解できますからね。しかも、さまざまなジャンルを芋づる式に辿れる上に、無料で気軽に楽しめますしね。
石井 路上観察学会でも一番の楽しみは、夜に宿に戻り、現像した写真をみんなで見るときだったらしいです。その宿の空間が今はSNSなんでしょうね。
「ドボク」のジャンルも包摂する「都市鑑賞者」の呼び名のススメ
石井 あと路上観察学会の活動を追うと、近代化する街への違和感みたいなものも感じます。考現学はカフェの女給など、むしろ当時の街の最先端のものも記録していたんですけど。一方で最近は、大山(顕)さんのショッピングモールとか、三土さんの『街角図鑑』に出てきたパイロンのような工業製品に着目する人も増えていますよね。
――その話は石井さんが対談前に質問事項に挙げていた、「内海さんが『路上観察者』ではなく『都市鑑賞者』と名乗るのはなぜか」という話とつながりそうです。
内海 都市鑑賞者という言葉を使ったのは、路上観察には収まらないジャンルが目の前にたくさんあり、それを総称する言葉がほしかったからです。路上観察という言葉が示す範囲って、「道を歩いていて目に入るもの」で、いわゆるカタカナの「ドボク」(ダム、団地、工場、ジャンクションなど)が好きな人や、建物の中のエスカレーターなどが好きな人は、はみ出ちゃうんですよ。
――大山顕さんの『工場萌え』の頃から、路上観察からはみ出る都市の鑑賞がブームになっていったのはなぜなんでしょうか。
石井 アカデミックな研究者と市井のマニアの壁がなくなったことは大きいでしょうね。「マニアフェスタ」にも大学の研究者が一定数いたりしますから。
内海 都市鑑賞の系譜には昔からさまざまな流れがあります。今和次郎や藤森照信さんは建築系の流れですし、写真家の流れもある。給水塔などタイポロジー(類型学)をコンセプトに撮影したベッヒャー夫妻は、大山顕さんが尊敬する写真家でもありますし。
――今は多様な路上観察がありますが新しいと感じる人や分野はありますか?
石井 驚くものは今でもありますね。例えば関西のけんちんさんは、観察対象が「団地、ドムドムハンバーガー、電気風呂、道路、電車」の〝5D〞と手広く、各々を調べ尽くしている方で、特に面白いのが電気風呂。考現学の頃から「観察と身体性の乖か い離り 」は議論になっていましたが、けんちんさんは電気風呂という身体的な刺激も研究している(笑)。電気の強さの判定基準が「自分の体」なのもすごいなと思います。
――(笑)。内海さんはいかがですか?
内海 SNSを見ているだけでも驚くものは日々あります。また、対象自体の新規性だけでなく、「見たものをどのような形でまとめるか」にも新しさや個性は出ますよね。
石井 その点ではSABOTENSが面白いですよね。路上園芸鑑賞家の村田あやこさんと、道に落ちている「落ちもん」を撮っている藤田泰実さんの2人組で、彼女たちは路上にあるものを「家ンゲイはんこ」というスタンプにしているんです。そのスタンプを買えばスタンプで自分の路上を作れる……という。
内海 あのスタンプは素晴らしいです。
石井 「こんな路上観察のアウトプットの仕方もあるんだ!」と驚きました。
赤瀬川原平のトマソン、路上観察学会とは。
1972年、街なかで「ただ昇って降りるだけの純粋な階段」を発見したことをきっかけに「不動産に付着して美しく保存されている無用物」をトマソンと命名した赤瀬川原平。上写真の「無用門(塞がれた門)」や「純粋階段」はトマソンの一例。なお名称は当時の読売ジャイアンツの助っ人外国人選手から。その後、赤瀬川はトマソンやマンホールの蓋、看板などを発見し考察する「路上観察学会」を創設。南伸坊、藤森照信、林丈二、荒俣宏らが名を連ねた。
「下から積み上げる街並み」を「民景的視点」から見る面白さ
内海 僕がよく人に勧めるのは石川県金沢市で活動する「金沢民景」です。建築家の山本周さんを中心に路上観察的な活動を行い、手作りの小冊子を作っているグループで、「門柱」「石臼」「雪吊り」など1冊が1ジャンル。15冊まで出ています。金沢民景の活動は本当に面白いんですけど、一つの特徴は住民にインタビューをすること。街で「これって何だろう?」と思ったものについて、実際に住民に話を聞いているんです。そして話を聞くと、なぜその形状で、なぜその場所にあるのかといった背景がわかったりする。僕は話を聞けない性格なのですごいなと思いました(笑)。
石井 しかも1冊100円なんですよね。僕は「私有橋」が面白かったです。
内海 金沢民景は、とにかく自分たちの住む街をじっくり眺めるし、その背景を知ろうとする。そうした過程を経て人々の生活から立ち現れてくる風景が「民景」で、その成り立ちを探る方法を「民景的視点」と彼らは定義していますが、その視点は他の土地の人でもインストールできる。そうやって「下から積み上げる街並み」を見る面白さを金沢民景さんに改めて教わりました。あと、この『散歩の達人』で連載してる能町みね子さんの『ほじくりストリートビュー』も今の時代ならではの散歩の楽しみ方で面白いと感じますよね。そうしたテクノロジーの変化を活かしたものだと、今後は動画を活用する人も出てくるかなと思います。
石井 片手袋も動画で撮る人がいます。
内海 それもスマホでの動画撮影が可能になったからですよね。ウェブ上の検索や、『東京時層地図』のようなスマホアプリなどを上手に活用することができれば、我々は赤瀬川さんにはできなかった街歩きもできると思います。
話題に出た路上観察本
取材・文=古澤誠一郎 撮影=佐藤七海(編集部)