こうしてファインダーの中央に収めて写真にしてみるとルネ・マグリットの絵画のようにシュールな光景だ。それともこれは一種のコンセプチュアル・アート? だとしたら、オノ・ヨーコの白いオブジェの作品のように見立てて、ここにあなたの想像する風景画を完成させなさい、といったタイトルでもつけてみたい気にさせられる。
でも、待てよ。そもそもなぜ誰もこの役立たずの看板をどけないのだろう? 公園には管理事務所があり定期的に清掃作業も行われているはずなのに。もしかしたらこの白い看板は私以外には見えていないのかもしれない。そんな馬鹿な、と思われるかもしれないが、たとえ視界に入っていても誰からも気に留められていないとしたらそれは無いも同然だ。
まるで宮崎駿のアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくるカオナシのように、モジナシの看板たちはじつはまちのいたるところにじっと立っている。
また別の日、マンションの前でひとりのモジナシに出会った。一本足のシンプルなスタンドの上に見事なまでに真っ白になった看板が付いている。おそらくは「関係者以外立ち入り禁止」か「自転車駐輪禁止」といった警告が書かれていたのだろう。しかし、その痕跡すらない真っ白な看板をこうして整然と置いていることに管理人も住民もなぜ疑問を抱かないのだろうか。
このマンションは見たところ掃除も手入れもとてもよく行き届いている。むしろ毎日欠かさずに掃除がされているからこそ、日々少しずつ文字が薄れていった変化を日常の中で違和感なく受け容れてしまっているのではないか。
文字の消えた看板はもはや意味を有するものではなく、ただ純粋に置かれているだけの存在だ。だとすればこれは無意味という概念を実体化した物理模型なのではないか。これこそがじつに「言うことなし」のパーフェクトな存在に見えてくる。
そう、あれこれ言うより何も言わないものの方が完全無欠の強さと美しさをもっている。無言板の美学はそこにある。
文・写真=楠見清