想像力の翼を広げ、自分だけの感動を掘り下げるのが「しみじみ」散歩。誰もが驚くような「ばえる」景色や食事を求めるのとは、ひと味違う大人の趣味だ。今回は「しみじみ」散歩を極めるべく、俳人の堀本裕樹さんと神奈川県大磯の街を歩いた。必ずしも自分で俳句をつくらずとも、考え方を知るだけで、散歩の楽しみはぐっと深まっていく。

しみじみの極意を聞き出して実践する「しみじみ総研」

「『しみじみ』は時間をかけて広がる、いわば『面の感動』です。<中略>例えば東京スカイツリーの展望台から大パノラマを見て「絶景だ!」と叫ぶのは点の感動。街を見下ろして『小さな家々にも人が住んでいて、それぞれにドラマがあるのだなあ』と感じるのは面の感動、『しみじみ』です」

これは、日本語の意味をひもとく連載「4コマことば図鑑」にて、国語学者の小野正弘先生による「しみじみ」ということばの解説。
「しみじみ力」を身に付けることができれば、散歩の楽しみは無限に広がるのではないか? そんな仮説から、さまざまな分野の専門家に「しみじみ」の極意を聞き出して実践するシリーズ。

静かに降る雪を見ながら、ふとよぎった想い出が胸を暖かくしてくれる……。忙しい毎日のなかでも、ときには「しみじみ」とした気持ちに浸りたくなるもの。国語学者の小野正弘先生に掘り下げてもらうと、何気ない散歩にも「しみじみ」が深みを与えてくれることがわかる。

吟行にいこう!

筆者:堀本さんは著書のなかで「吟行」を勧めていますね。

堀本:「おくのほそ道」で有名な松尾芭蕉は、古歌に詠まれた名所旧跡をめぐりました。けれど、そんな大旅行をしなくても、身近な場所を歩くだけで俳句を詠むことはできます。句を考えながら散歩すれば、それは立派な「吟行」です。

筆者:俳句初心者が「吟行」するとき、堀本さんはどんなアドバイスをしていますか?

堀本:人とは違った、自分なりの視点を探してください、とお伝えしています。「類想・類句」という言葉があり、特に初めのうちは、どこかでみたような発想の句をつくりがちなんです。
桜を見上げて「美しい」と詠むのはふつうです。さらに近寄って根本を覗いたり、反対側から見てみたりと、工夫すると違った見方ができます。
たとえば、「満開のふれてつめたき桜の木 鈴木六林男」。桜が満開なのに、作者はその幹の冷たさに目を向けて詠んでいますね。

筆者:それが「俳句的なものの見方」なのですね。

堀本:俳句は十七音というとても短い詩歌なので、似たような句ができやすいのです。だからこそ、何かひとつ、ちょっとしたことでも、違った視点があると個性が引き立ちます。

筆者:物事を見た瞬間に詠むのではなく、じっくり観察することが基本なのですね。これも「しみじみ」です。

堀本:まずは観察し、次は感じたことをどのように表現するか。日本語のボキャブラリーや表現方法もある程度知っていないと、俳句は上達しません。
初心者の方に話を聞くと、観察の視点はとても良いのに、句で表現できていないことが多くあります。「ことばを尽くす」ことはとても難しいですが、作品をつくろうと集中して取り組むうちに、自然と表現力は身についていくものです。

筆者:確かに「うまく表現しなければ」という意識が、俳句の敷居を上げているのかもしれません。けれど、五七五の形にまとめる前の、観察で感じたことを日記にしたり、つぶやいたりするだけでも、散歩はおもしろくなると思います。

堀本:歳時記を片手に、俳句的なものの見方をもって散歩をすると、心の健康にもよいですよ!

「しみじみばえ」を探せ!

筆者:気軽に写真がとれるスマホを持って歩いていると、つい「ばえる」スポットを探してしまいます。

堀本:それでは、人と同じ視点になってしまいますね。自分なりの「しみじみばえ」を探すと、楽しみは無限に広がります。

筆者:そういう意味では、大磯港のような静かな漁港にはスポットがたくさんありそうです。

堀本:潮焼けした船など味わいがあります。あ、あんなところに鵜がいます。「鵜」は夏の季語ですね。「波にのり波にのり鵜のさびしさは 山口誓子」、鵜も寂しさを感じるのかな。
あの海鳥は気持ちよさそうに飛んでいますね。カモメですね。コロナなんて関係なく、自由でいいなあ。

筆者:さすが、俳句的なものの見方で「しみじみばえ」を探しているのですね。波の音や潮の香りも俳句の題材になりますか?

堀本:もちろん。聴覚や嗅覚、触覚も大事です。しかし、近代俳句はどちらかと言えば視覚的な文芸と言えます。明治の俳人・正岡子規は、知識や教養を元に陳腐な表現に甘んじた「月並俳句」を批判し、革新をもたらすために「写生」を主張しました。「写生」は絵画の手法で、それを俳句の表現方法に取り入れたのです。
ありのままをスケッチするように、また内面の滲み出るようなスケッチを目指して。それはひょっとして、いい写真を撮ることに似ている部分があるのかもしれないですね。

筆者:確かに、カメラマンはアングルやズーム、露出など、世界の切り取り方をさまざま工夫しています。ことばでも同じような工夫ができると。

堀本:正岡子規は、弟子である河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」を、写生の句として高く評価しました。

筆者:色彩鮮やかな絵画のような句ですね。けれど、言っていることは椿の花が落ちた、というだけ。私ならこの光景に接しても、特に「しみじみ」感じることなく見過ごしてしまうでしょう。

堀本:さりげないことでも、ことばにすることで発見につながります。俳句的なものの見方で世界をみつめ、どう切り取るかに個性が現れます。

筆者:「しみじみばえ」の貴重なヒントをいただきました!

フィクションを楽しむのも俳句

堀本:「写生」と矛盾するようですが、俳句はフィクションもありなんです。

筆者:ええっ、そうなんですか!?

堀本:「古池や蛙飛びこむ水の音」という松尾芭蕉の有名な句には、ちょっとしたエピソードがあります。
芭蕉は、中七の「蛙飛びこむ」と下五の「水の音」はできていましたが、上五を決め切れずにいました。すると弟子の其角は「山吹や」ではどうか、と提案します。

筆者:本当に山吹の花が、咲いていたわけではないのですよね。

堀本:おそらくは。一句の世界に黄色の山吹が入ることによって、鮮明なイメージが浮かび上がります。蛙が飛びこむ音とのコントラストもおもしろい。それから和歌では、蛙と山吹を一緒に詠み込んだ情景が多いので、其角はそのパターンに当てはめて提案したのでしょう。
このように、季語と直接関係のないことばを組み合わせることを「取り合わせ」と言います。

筆者:先ほど教えていただいた、与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」も取り合わせの句でしょうか。

堀本:絶妙な取り合わせです。菜の花と月と日は、ふつう関係ありません。しかし、「菜の花や」と一度切って月と日を取り合わせることで、世界が一体となって現れてきます。
ちなみに芭蕉は、其角の案を採用せず「古池や」としました。「山吹」と「蛙」は巧みな取り合わせかもしれませんが、やや作為が見えてしまいます。
取り合わせは距離感が大切で、遠すぎるとあざとくなったり、近すぎるとありきたりになったりします。

筆者:散歩しながら季語をみつけたら、どんな取り合わせがあるか、考えるだけでも楽しそうです。現実にはその場に存在しないものまで、想像が広がります。
それにしても、俳句の作法や名句を教えていただいただけで、世界がだいぶ広がったように思います。私はまだ、一句も詠んでいませんが…。

堀本:五七五という短いことばで表現するのは、さりげなく見えて、実は特別な行為なのかもしれませんね。加えて、日本人にとってなじみのあるリズムなので、心にすっと入ってきます。
また、表現を省略せざるを得ないので、いかに読み手に想像させるか、つまりどれだけ奥深く「しみじみ」させるかが俳句のおもしろさだと思います。詠み手にも、読み手にも想像力が求められます。
コロナ禍で私自身、散歩を見直しました。散歩は、身近な場所を再発見する旅だと思います。ぜひ、俳句的なものの見方を日常に取り入れて、皆さんそれぞれの旅を楽しんでいただきたいと思います。

やってみた! 小さな奇行散歩

取材を元に筆者自身が新しい散歩にチャレンジする「しみじみ総研」。堀本さんは、空を見上げたり、後ろを振り向いたり、しばらく立ち止まるだけでも、俳句的なものの見方につながるという。これって外から見たら、ちょっとした“奇行”ともいえるんじゃないだろうか。

そこで、通勤、通学、買い物など、ふだん使う道のりで、あえて人とは違う行動をとってみた。誰も気づかないほどの“小さな奇行”だ。

大切にしたのは、意識より先に行動を変えること。ふだんしないように振る舞ってみると、いままでにない視点がうまれ、新しい出会いを体験できる。

取材・文・撮影=小越建典