小野正弘 先生
国語学者。明治大学文学部教授。「三省堂現代新国語辞典 第六版」の編集主幹。専門は、日本語の歴史(語彙・文字・意味)。

日本人の奥底に流れていた概念

小野先生 : 漢字の「鬼」は「死者」あるいは「死者の魂」のことをいいます。いっぽう、「おに」の語源は中国から来た「隠=おん」で、「隠れているもの」の意とされます。平安時代初めから使われていました。

筆者 : 「おん」が変化して「おに」になったということでしょうか?

小野先生 : はい。「漢語の和語化」といって、中国語の読み=音読みを、音を少し変えて訓読みにして、使ってしまうことがあります。「セン(銭)」→「ぜに」や「マ(馬)」→「うま」といった具合です。

筆者 : へえ〜。中国から入ってきた概念を、音読みして日本語にするパターンはよくありますよね。この連載では、「散歩」や「達人」を紹介してきました。そうではなく、訓読み化されて和語になるのは、どんな言葉なのでしょうか?

小野先生 : 中国から来た概念だけれど、いかにも「元から日本にあった」というようにつくられた言葉ということになります。つまり、まだ言葉にはなっていなかったけれど、まったく新しい考え方でもなく、日本人の奥底には流れていた概念が、和語化するのだと思います。
当初の鬼は、「具体的な実態のない存在」といった意味合いで、それが人に祟ると考えられていました。

筆者 : 何か得体のしれない恐ろしいもの、という感じでしょうか。言語や文化に関わらず、人間が持っている概念のような気がします。

小野先生 : 他の言語から教わるようなことではないですからね。しかし、かつての日本人は「八百万の神々」の思想を持っていましたから、人に悪さをするような「おに」にあたる言葉がありませんでした。
怪物としての姿が描かれるようになったのは、だいぶ後のことです。ツノやキバが生えて、虎皮のパンツをはいているのは陰陽道の、赤鬼や青鬼がいるのは仏教との結びつきによります。

言葉がブリーチング(漂白)される!?

筆者 : 「鬼」は、今では色々な意味で使われていますよね。「仕事の鬼」とか。

小野先生 : すでに室町時代ごろから、「鬼将軍」など「人も恐れるほどの」という意味に転用されるようになりました。江戸時代になると、「荒々しいもの」「迫力のあるもの」というように、さらに転用が進みました。
現代では、「鬼かわいい」「鬼うまい」のような、よいイメージのものに対しても「鬼~」を付けて表現することがありますね。

筆者 : 長い時間がたっているとはいえ、なぜこのようにまったく違う意味に変わってしまうのでしょうか?

小野先生 : 言語学でいうブリーチング(漂白)という現象です。
色のついたシャツが漂白されるように、「鬼」が持つさまざまなイメージから、「怖い」「悪い」という意味が中和されていくことがよくあります。とはいえ、「恐ろしいほどの」という感じ、完全には漂白されていない「しっぽ」のようなものが残っています。

筆者 : 確かに、どんどんネガティブなイメージがなくなっているように思います。

小野先生 : 実態のない恐ろしいものが「おに」という和語で呼ばれると、概念を共有できるようになりました。ツノや虎皮のパンツといった視覚的なイメージが付けられると、さらに具体化して身近な存在になりました。そして、いまや「かわいい」「うまい」といった言葉を強調するために「鬼」が使われるようになったと。

筆者 : 「人に祟る得体のしれないもの」としての「おに」は、桃太郎や炭治郎がやっつけられるような存在ではなかったでしょうね。人が触れてはいけない、もっと畏怖するべき存在だったのではないかと。
何かに名前や言葉を付けるということは、存在や概念をコントロールする、ということなのだとよくわかります。

取材・文=小越建典(ソルバ!)