町がレコードの溝で、自分は針
今回はそこからさらにひとひねりして、自分がかつて住んでいた町を今の自分の目線で歩いてみようと思った。東京を離れてから一度も来たことのなかった千川駅で地下鉄を降りてみると、ホームを歩いて改札を出て地上へ出るまでの短い距離がすでに不思議な体験だった。まるで今も千川に自分の部屋があって、そこに帰っていくのが当然のことのように思えるのだ。何年ものブランクが信じられないほど、町の雰囲気が体にスーッとなじんでいく。
自分がかつて住んでいた建物を遠くから眺めてみる。当時よりちょっと古ぼけて見えるが、きっと同じ部屋で別の誰かが生活しているのだろう。
その建物のすぐ近くのコンビニに立ち寄り、飲み物を買うついでにトイレを借りた。住んでいた頃は毎日のように利用してきたコンビニだが、トイレのドアを開けた瞬間、初めて入ったことに気がつく。そうか、ここでトイレを借りたことなんかなかったな。家のすぐそばだったんだから、そりゃそうか。
駅周辺を散策してみる。私が住んでいた頃にはなかった100円ショップができていて、チェーンのとんかつ屋がオープンしている。そんな風に変化した部分もちらほら見つかるけど、予想以上にあの頃のままの風景だった。つけ麺屋の裏道を通るとダシのいい匂いがして、しばらく進むと神社があって、そうだ、この池には鯉が泳いでいたんだった。
道を歩いているうちに小さな記憶が次々によみがえり、自分の記憶のはずなのに自分の中にではなく、町の方にそれが記録されていたように感じられてくる。町がレコードの溝で、自分が針となって古い思い出を再生しているような。
千川が誇る人気スポットといえば『熊谷守一美術館』だろう。画家の熊谷守一は昭和7年(1932)に千川近くに住み始め、生涯を終えるまでの45年間を同じ場所で過ごした。その住居跡に立っているのが今の美術館だ。70歳に近くなった熊谷守一は家からほとんど出ず、庭先の草木やアリを眺めて過ごしたという。シンプルな線と大胆な色彩感覚で描かれた晩年期の作品には独特の魅力がある。
美術館の壁面には『赤蟻』という代表作が描かれていて、私はまだ幼かった自分の子どもと散歩しながら、この壁の前に来ると「ほら、アリだよ」「アリさん、アリさん」といつも立ち止まったこと思い出した。
千川に住んでいた頃はわが家が慌ただしく、子育てに追われていた時期とも重なっていて、周辺のあちこちを子どもを連れて歩いたものだ。千川から椎名町方面へと向かう道沿いにある「フラワー公園」でもよく遊んだ。園内には都営地下鉄12号線の試作車両が2両設置されていて、その中に自由に入れるようになっていた。改めて中をのぞいてみたいと思ったけど、残念ながらドアが故障してしまったらしく、ここ数年は閉鎖されているとのことだった。
現役で活躍している女神との再会
公園を通り過ぎて歩いていくと「椎名町サンロード」のアーチが見えてくる。左右をきょろきょろと慌ただしく眺めながら商店街を歩いているうちに空腹をおぼえた。かつてよく通っていた、近隣を代表する町中華の名店『タカノ』。2016年に閉店してしまったと風の噂で聞いていたのが、2年ほど前に営業を再開したと知り、行ってみることに。
よく食べていたラーメンは300円から350円に値上がりしていたが、それでもこの値段である。ボリュームもたっぷりでチャーシューの味わいもギュッと濃厚。東京らしいラーメンを食べることができてうれしい。懐かしくなって店主に話しかけてみると「一度閉めたけど、暇になっちゃって。それでやることにしたの。あくまで趣味でね」とのこと。
以前より店舗の敷地も小さくなり、今はお一人で気ままに営業されているようだ。この道45年、70歳になるという店主のラーメンをありがたくいただいた。
椎名町駅前の『南天』の名物メニュー・肉そばも食べたいのに胃袋が一つしかないのが悔しい。長崎神社をお参りし、子犬が店番をする『春近書店』で古本を買った。
踏切前で西武線が通過するのを待つ人たちの背中を見て「私もここでこうして電車を待っていた」と懐かしく思い出す。西武線の黄色い車両が視界に現れるのを期待していたら、未来的なデザインの特急車両La view(ラビュー)の銀の車体が現れて驚いた。
どこかで軽く一杯飲んでいこうと『おぐろのまぐろ』という路地裏の立ち飲み店へ。199円というサービス価格の「桝盛り本マグロ」をつまみにチューハイを飲む。
壁に貼られたドリンクメニューには「チューダー」の文字も。偉大なマンガ家たちを輩出したトキワ荘の面々に愛飲されていたという椎名町らしい飲み物だ。注文してみるが、あいにく今日は肝心のサイダーが切れているとのこと。また来る時には必ず飲みたい。
酔いをさますためにしばし夜道を歩いた後、要町方面にある『山の湯』という銭湯へ向かうことにした。ここもよく子どもを連れて入りにきていた銭湯で、迷路のように入り組んだ路地の先に突然現れるちょっと幻めいた風情が好きだった。脱衣所が広々としていてガラス戸から庭が見え、山の湯という屋号もあいまってちょっとした旅気分を味わえる。
ひょうたん形の浴槽の中心には女神像が鎮座し、左肩に掲げた壺からお湯が流れ出ている。ところどころ修繕された跡が見えつつも、女神が現役で活躍していることがうれしい。
ポカポカと温まって銭湯を出て、夜の闇にそびえる煙突を見上げた。「またすぐ来るから、いつまでもここに立っていてくれよ」と思いながら、かつての住まいがあった方向とは違う道を選び、駅へ向かうことにした。
文・写真=スズキ ナオ