【今回のコース】早雲公像から家康の陣跡周辺まで、小田原攻めの痕跡を辿る
秀長が参陣していないとはいえ、戦国時代最大と謳われていた、総延長は約9kmにも及ぶ小田原城の総構は一見の価値ありだ。その堅固さゆえ、武田信玄や上杉謙信らの攻撃をも跳ね返している。そんな総構の遺構は、現在でも随所に当時の面影を色濃く残す姿を目にすることができる。今回は秀長不在であっても、豊臣兄弟の天下取り総まとめの戦として重要な小田原征伐の痕跡を今に伝える、総構を歩いてみることにした。
<今回のコースは次の通り>
小田原駅西口→(1分)→北条早雲公像→(10分)→八幡山古郭東曲輪→(30分)→山ノ神東→(10分)→山ノ神堀切→(1分)→山ノ神堀切西堀→(10分)→稲荷森→(30分)→小峯御鐘ノ台大堀切西堀→(5分)→小峯御鐘ノ台大堀切東堀→(25分)→大外郭土塁→(5分)→水之尾口櫓台→(40分)→北条氏政・氏照の墓所
<番外編>
小田原駅東口→(50分)→徳川家康陣地跡の碑→(20分)→蓮上院土塁→(5分)→江戸口見附→(30分)→小田原駅東口
北条氏の繁栄を築いた早雲の像から 、古い小田原城の痕跡へ
小田原駅では西口、別名新幹線口から外に出る。目の前はロータリーとなっていて、その中央付近に牛を従えた勇壮な騎馬武者の像が立っている。北条早雲が夜襲で小田原城を攻め落とした際、大軍で攻めて来たように見せるため牛の角に松明を付けた「火牛(かぎゅう)の計」を用いたという逸話を元にした像だ。北条氏5代100年にわたる繁栄の祖となった武将だけに、まずは対面しておこう。
続いて訪れたのは、小田原駅の南西側に位置する八幡山古郭東曲輪跡。ここは丘陵上にいくつも遺されている八幡山遺構群のひとつで、伊勢宗瑞(北条早雲)が当時の小田原城主・大森藤頼(ふじより)を破った頃の小田原城中心部であった。ここは秀吉の小田原攻めに備えて築かれた総構より、古い時代の遺構である。早雲時代に築かれたと推測される大型の土塁や、三味線堀と呼ばれる短い鍵折れ状の堀跡も発見されている。
現在は歴史公園として整備されていて、自由に見学することができる。しかも高台にあるので、東海道線の線路越しに小田原城天守を望むことができる。さらに小田原攻めの際、秀吉が本陣を据えた石垣山一夜城を遠望することもできる。まさに小田原城総構散歩の起点とするのに、最適なスポットなのだ。
丘陵地帯へ足を踏み入れると、周囲の風景はのどかさを見せる
北条氏は秀吉軍による侵攻に備え、城下町全体をすっぽりと囲い込んでしまう空堀と土塁を築いた。現在、その遺構がはっきりとわかるのは、城の北西部から西、さらに南西部にかけてのエリアに集中している。八幡山古郭東曲輪跡を後にしたら、県道74号小田原山北線を北に向かう。城山幼稚園が左側にある城山交差点を左に入るのだが、左折できる道が2本あるので要注意。奥の急な登り坂になっている方に向かうのが正解。手前の道は少し進むと行き止まりになっている。
息がきれてしまうほどの坂を登り、少し傾斜が緩やかになると、左側に防災倉庫がある分かれ道が出てくる。ここを左に折れる。しばらく進むと、左側が崖状になり、畑や斜面に建てられた住宅越しに、小田原城天守と相模湾が望める。この辺りから急に街中散歩から牧歌的な風景を散歩する気分に切り替わる。
やがて右手にも斜面と畑が広がる風景が現れると、右手に斜面を下りていく道が分岐している。そこに総構を解説する案内板が建てられていた。この周辺は今では堀を埋め立てて畑に利用されているが、かつては地形に沿って一番高いところから少し下がった位置に堀が造られていた。行き止まりに見えるような地形の場所にも、食い違いとなって掘が延びていて、敵の侵入を防いでいた。
ここまでは畑が目につく住宅地を歩き、総構の遺構も案内板がなければわからない程度であった。しかしこの先に進むと、想像以上の遺構を目の当たりにすることになる。
総構の核心部では多くの遺構が良好な保存状態で見られる
道は丘陵地帯の尾根上に達し、両側には畑や雑木林が広がっている。いつの間にか住宅は見当たらなくなり、里山散歩の様相を呈するようになった。やがて道がクランク状に曲がりその先には、はっきりそれと分かる土塁が見えた。近くまで行くと、道により寸断された土塁は右手の斜面に続いていた。
ここは「山ノ神堀切」と呼ばれていて、箱根山から続く谷津丘陵を東西に分断する効果を有していた。樹木や下草が処理されているので、土塁の高さをはっきり認識することができる。しかも西端まで行くと「山ノ神堀切西」と呼ばれる、約4mもの高低差がある堀と接続しているのも見られる。保存状態が良いので山の斜面を巧みに利用し、大きな高低差を確保している様子がわかる。
この辺りまで来ると、道は簡易舗装こそ施されているが、軽トラックくらいしか通れない完全な農道となった。人やクルマの往来が多く、日中は喧騒に包まれている小田原の中心街からほんの少し離れただけなのに、まるで別世界に迷い込んだような気分になった。
高低差もほとんどなく、気持ちのよい農道をしばらく進むと、右手に「総構 稲荷森」と書かれた案内板が現れる。しかも矢印が畑の間の畦道方向を向いている。まさに人ひとりしか通れない細い道を辿ると、崖のような場所で道が寸断されていた。この大きな窪地が稲荷森と呼ばれる場所で、外郭を形成する堀や土塁の中で、発掘によることなくこの姿を四百数十年も保ち続けてきた。
しかも総構の中でも最も良好な状態の遺構で、総構の堀が地形に沿って弧を描いている様子がひと目でわかる。堀の内側には、わずかではあるが土塁の跡が見られる。総構の堀は尾根の頂部分から少し下がった部分に構築し、外側を土塁で盛り上げることにより、麓から攻め上がる敵兵からは掘の存在がわからない。そのためここで足止めを喰らってしまい、討ち取られるのである。
3つの堀が連続して防御する小峯御鐘ノ台大堀切と遭遇
稲荷森から再び尾根上の道に戻ると、しばらく平坦で真っ直ぐな農道が続く。まさしく鼻歌交じりで散歩できるコースだが、戦国時代はここが小田原城防御の最前線だったことを思うと、複雑な気持ちになる。
やがてT字路のように見える四つ角が現れる。案内板によると、右手の一段高い畑へと登る道は、畑の作業道のように見えるが小峯御鐘ノ台大堀切西堀へと続いている。この小峯御鐘ノ台大堀切は3本の堀で構成されていて、その一番西側にある堀へ至るのだ。
西堀は深さが約9m、堀の幅は約30m、土塁の敷幅が約13mもあった大規模なものであった。江戸時代に描かれた絵図によれば、かなり複雑な構造をしていたようだ。しかし現在では大部分が埋め立てられてしまった。北側まで足を延ばせば、良好な状態の堀と土塁が遺されている。
再び交差点まで戻ると、次は直進する道を辿ってみた。ここはクルマも走れる道となっているが、小峯御鐘ノ台大堀切中堀の遺構でもある。道はかつての堀にあたり、両側に土塁が盛り上がり切通しのような様相を呈している。西堀、中堀、そして次に訪れる東堀は、それぞれの高低差をうまく利用して接続している。これは総構が地形を上手く利用して、緻密に構築されていることを示している。
戦国時代の緊張感が今でも味わえる、最大規模の堀と土塁を体感
この総構散歩のクライマックスとも言えるのが、次に訪れた小峯御鐘ノ台大堀切東堀である。ここは本来、小田原城三の丸新堀の一部で、外郭を成していたのである。秀吉の侵攻に備え小峯御鐘ノ台大堀切中堀と西堀が構築されたことで、小峯の丘陵を守る一連の堀切となったのである。
東堀は当時の様子が最も良好な状態で遺されていて、現状の土塁上から測った堀の幅は25〜30m、深さはおよそ8〜10mだ。しかし発掘調査によれば、深さは12〜15mにも及ぶと判明している。しかも堀の法面(のりめん)の角度は50〜60度もあり、とても駆け上がることは不可能なものである。底部には北条氏の築城で良く見られる障子堀も確認されている。
堀の底部分は現在、散策路となっていて歩くことができる。実際にそこを進むと、誰でも両側にそそり立つような土塁の法面に圧倒されてしまうであろう。途中には横矢掛りと呼ばれるクランク状の場所が2カ所あり、その防御力を実感することができる。
約280m続く堀底を抜けると、舗装された車道に出る。その道を左に行けば小田原駅や小田原城天守方面に行くことができる。だが右手前に延びる細い簡易舗装の道を登り、総構最西端の遺構へと向かった。その途中、かなり良好な状態で遺されている土塁も見られる。
土塁を過ぎると左手には小田原カトリック墓地があり、目隠しの切れ目でズラリと並ぶ十字架の墓が目に入る。人と出会うこともほとんどないので、ここは陽が高いうちに通り過ぎるのがいいだろう。
墓地の先で、突然視界が拓けた。四方を遠望できるといっても過言ではないほど。そこに建つ案内板には「総構 水之尾口櫓台」と書かれていた。それによればこの地は標高が120mあり、総構の最高地点であった。この位置から豊臣方の陣を望むことができた。
この後、時間や体力が遺されているならば、早川口の遺構に向かいつつ石垣山展望地や三の丸外郭の新堀、伝肇寺西の発掘調査地点などを訪ねてみるのもいいだろう。今回は相洋中等・高等学校前を通る道を辿り、小田原駅南口へと向かった。駅前の飲食店街にひっそりと建つ「北条氏政・氏照の墓所」に立ち寄ることにしたのだ。
氏政は後北条氏第4代当主、氏照はその弟で八王子城など5つの支城の城主を務めていた。小田原城が落城すると、ふたりは城下で自刃。墓所のある地に埋葬された。関東大震災で被害を受けたが、地元の有志により復元され、現在も守り続けられている。
小田原攻めに参陣したキーマン、徳川家康の陣跡周辺を巡る
今回の総構散歩コースから大きく外れてしまう場所に、小田原征伐に参陣した徳川家康が陣を張った場所が遺されている。その陣跡は、ほとんど総構の遺構が遺されていない東側にある。小田原駅東口から直線距離でも1.5kmほどあるため、ゆっくり歩くと1時間近くかかってしまう。それでも道は比較的平坦なので、街並みを楽しみながら散歩を楽しめる人にとっては苦にはならないだろう。
バスで向かう場合、東口から箱根登山バス「城東車庫前行き」に乗車。今井バス停で下車すればすぐである。1時間に2本程度走っているので、時間がない人にはおすすめ。こちら側だけを単独で訪れるのも悪くない。
家康が本多忠勝や井伊直政、榊原康政などに率いられた約3万の兵とともに陣を敷いた地には、今井権現神社(東照宮)が建てられている。その前には、江戸時代の小田原城主大久保忠真が天保7年(1836)9月に建立した、徳川家康陣地跡の碑がある。
家康の陣跡から南西方向に20分ほど、新玉小学校に隣接している路地に、東側では数少ない総構の痕跡、「蓮上院土塁」を見ることができる。ここでは昭和20年(1945)8月13日、太平洋戦争終結直前に行われた空襲で、爆弾が土塁に着弾し大きく損壊した跡まで目にすることができるのだ。
蓮上院土塁から国道1号へ出ると、東海道の外郭入り口であった「江戸口見附」がある。現在は小さな公園となっていて、史跡を示す標柱があるだけだが、かつては土塁と矢来、さらには喰違いが形成され、番所も置かれた堅固な出入り口であった。このように、平坦な場所の総構はほとんど姿を消してしまったが、名残をなぞって歩けばその大きさに驚かされるであろう。
さらにこの付近から小田原城天守まで歩けば、実際に総構がどれほど大きかったかが実感できる。総構を辿るのは、新たな小田原の魅力が存分に味わえる極上コースだ。
取材・文・撮影=野田伊豆守







