街なかに野生のスズムシが!

8月下旬、国府津・曽我丘陵のあちこちで野生のスズムシの合唱が始まっていた。

えっ、スズムシ? 一瞬耳を疑ったが、ほかの虫たちの声に交じって、たしかに「リーン、リーン、リーン……」と涼やかなスズムシの鳴き声が聞こえる! 小田原市東部、JR東海道本線国府津駅から線路に沿って歩いて数分の線路脇の草むらから、スズムシの声が聞こえてくるのだ。東京駅から普通列車で行っても1時間少々で着く、東京近郊と言っても差し支えないところ。すぐ南には国道1号が通っていて車が忙しく走っている。こんな街なかで野生のスズムシが鳴いているなんて!

「スズムシなんてそのへんでふつうに鳴いているのでは?」と思うかもしれないが、それは大間違いだ。都心部はもちろん、東京近郊でも野生のスズムシはほぼ絶滅しているし、地方でもかんたんにはスズムシの声を聴くことはできない。スズムシは秋の虫の代表なのに、実際にはレアな虫なのだ。あなたがスズムシと思っているのは外来種のアオマツムシかもしれない。メッチャ大雑把にいえばスズムシの声に似ているが、聴き比べてみればまるで違う。逆にいえば、日本人は秋の虫の音をメッチャ大雑把に聴くようになってしまったのだ。

住宅地を夜散歩していると、民家から飼いスズムシの声が聞こえてくることはたまにある。スズムシは江戸時代から養殖が盛んで、市中を移動販売する虫売りによって大量に売られてきた。スズムシ養殖の伝統は今も生きていて、飼いスズムシの声を聴く機会は結構あるから身近な虫の気がするのだが、野生のスズムシの声を聴く機会はなかなかない。草地が潤沢な、そうとうまとまった自然のある地域でないとスズムシは生き残れない。

秋の夜、線路脇からいきなり始まる別世界

で、国府津だ。「国府津ってどこ?」と思う人は少なくないだろう。私自身、国府津を歩いたのは去年(2025年)が初めてだ。私は東京造形大学大学院Hachioji影絵プロジェクトの教員のひとりとして、木製プロジェクターを多数用いた闇深い人力アニメを教えていて、去年の公演を国府津でやることになったからだ(今年も12月12日土曜に無料公演「シラス鉄道の夜」を国府津のBLEND PARKでやるので、「木製プロジェクター」とか「闇深い人力アニメ」に興味を抱いた人は、よかったら観に来てください)。

国府津は、「天神さまの細道」を歌う童謡「通りゃんせ」の発祥の地だという説がある。ここは細道の街なのだ。
国府津は、「天神さまの細道」を歌う童謡「通りゃんせ」の発祥の地だという説がある。ここは細道の街なのだ。
Y字路ならぬY字階段。国府津駅の近く、立道架道橋の南側。
Y字路ならぬY字階段。国府津駅の近く、立道架道橋の南側。

国府津駅で下車すると、駅の南側に広がる海の近さにまず気を取られる。かつて漁業が盛んだった街には車が通れない細道が多く、心惹かれる。だが、駅の北側に足を向けると風景は一変する。駅のすぐそばからみかん畑や森林、耕作放棄地などが広がる丘陵が延々と続き、舗装路がいろいろ通っていてみかん小屋は点在するものの、民家はまったくない。だから街灯がなく、日が暮れると豊かな闇を湛える。昼間は農作業やハイキングなどでそれなりに人がいるだろうが、夜はイノシシなどの気配だらけでなかなかの獣口密度。そんな線路脇から丘陵のそこかしこでスズムシが鳴きまくっているのだ。

国府津駅北側の丘陵には草原と化した耕作放棄地もかなりあり、秋の虫天国。みかん小屋のたたずまいもいい。
国府津駅北側の丘陵には草原と化した耕作放棄地もかなりあり、秋の虫天国。みかん小屋のたたずまいもいい。

スズムシの鳴き声は澄み切った音ではなく適度にノイジーなのがなんとも心地よい。東京近郊でも多摩川のような大きな川なら、河川敷は草地と河畔林が延々と細長く続くひとまとまりの自然だから、スズムシの声を聴くチャンスはある。だが、東京からかんたんに行ける場所で、国府津のように広大な闇が駅に隣接していて、それにしっかり包まれてスズムシの合唱に浸れるというのはなかなか得難いことだ。

クツワムシ時雨をしんしんと浴びる

あの至福を今年もまた味わいたい。スズムシが鳴くのは一般に8月から10月にかけてとされ、10月初旬には聴かれなくなるともいう。なので、去年、国府津でスズムシの声を聴いたのは9月下旬だったが、今年は8月初旬の夜に行ってみた。だがまだ早かったようで、ウマオイをはじめ虫の音はにぎやかだったが、スズムシは鳴いていなかった。

まるで白いレースの衣をまとった妖精たちのような、カラスウリの花たち。夜の間だけ咲く。
まるで白いレースの衣をまとった妖精たちのような、カラスウリの花たち。夜の間だけ咲く。

とはいえ、まったく無駄足ではなかった。夜に咲くカラスウリの幻想的な白い花があちこちで咲きまくっていてそれだけでも満足だったが、スズムシ同様、なかなか声を聴けなくなったクツワムシがシャカシャカ(ガチャガチャ)と大声で鳴いていて、とくに丘陵を下って曽我梅林に入るとスゴい! たくさんのクツワムシの声が降り注ぎ、まるで夜のしっとりとした蝉時雨という感じ。なんて心地いいんだろう。

闇に染み入るクツワムシ時雨。初めは少し遠くでたくさんのクツワムシが鳴いているが、00:17あたりから近くでも1匹鳴き出す。

江戸時代、スズムシ、マツムシやヒグラシなどと並んで、クツワムシも盛んに売られていた。スズムシ、マツムシやヒグラシの声はふつうの日本人の感覚では美しいと思うが、クツワムシはどうなのか。あんなただうるさいだけの声を家で楽しみたいと思うのか? ずっとそれが謎だったのだが、蝉時雨のうるささの先に心の静寂があるように、クツワムシ時雨のうるささの先にも心の静寂があるのだと、この歳になってようやく理解した。ついでに陸生ホタルの幼虫の密やかな発光も愛でて、超満足の闇歩きとなったのだった。ちなみに、クツワムシの声はふつう、8月から10月いっぱいまで聴けるといわれる。

クツワムシ時雨に心を奪われて、スズムシが若干どうでもよくなってしまったものの、8月下旬にもう一度、スズムシを求めて夜の国府津・曽我丘陵を訪れてみた。すると、最盛期はまだ先という感じだが、線路脇の草むらをはじめ、あちこちでスズムシが鳴いている。クツワムシ時雨も健在だったが、クツワムシのにぎわいは梅林から山の上に移っていた。

月夜には月に照らされた海がよく見える。丘陵には「見晴台」という名のスポットもあるが、わざわざそこに行かなくても眺めのいい場所があちこちにあり、見晴らし放題。
月夜には月に照らされた海がよく見える。丘陵には「見晴台」という名のスポットもあるが、わざわざそこに行かなくても眺めのいい場所があちこちにあり、見晴らし放題。

国府津駅の北側を少し登ったところ。風の音といろんな虫の音に交じってスズムシの鳴き声も聞こえる。

この丘陵は夜富士のビューポイントだらけでもある。夏の登山シーズンには富士山の山小屋たちの火影がよく見える。富士山が雪化粧する季節になれば、夜の中で白く浮かび上がる。
この丘陵は夜富士のビューポイントだらけでもある。夏の登山シーズンには富士山の山小屋たちの火影がよく見える。富士山が雪化粧する季節になれば、夜の中で白く浮かび上がる。

駅のホームで野生スズムシの声に浸る

この夜は月が明るくて、足元に不安のない道なので無灯火でのんきに歩いていた。そしてふと視線を落としたら、目の前に子ダヌキがいてビックリした! タヌキがいることに驚きはないが、わずか1.5mほどの至近距離で向こうがまったく私に気づいていないことに驚いたのだ。子ダヌキは月に見惚れている感じで動かない。

人間が歩いてくるとは夢にも思わず、完全に油断していたのだろう。少し立ち止まってようすを見たものの向こうはなおも私に気づかず月見状態のままなので、「それじゃあ記念撮影でもどーすか」とポケットからiPhoneを取り出そうとしたらやっと気づいて、メッチャ慌てて繁みに逃げ込んだのだった。なんかゴメン、子ダヌキ。

丘の上から曽我梅林へ下ると、数は少ないが里でもスズムシが鳴いている。すっかり満足してJR御殿場線の下曽我駅前に着くと、ローカル線とはいえ駅のド真ん前でもスズムシの声がする! 駅に入ってホームに立つと、そこでもよく聞こえる。スゴい、駅前どころか、駅の中で野生のスズムシの声が聴けるのだった。

 

ではまた。闇の中で逢いましょう。

文・写真=中野純

シーズン2 第一夜闇を歩く男、中野純さんの連載「闇で逢いましょう」が帰ってきました。シーズン2の記念すべき第一夜のテーマは「東京スカイツリー」。やはり普通のタワーさんぽじゃありません。