丁寧な作りのそば
『朝日の食堂 そば川』があるのは、川口市を流れる芝川にかかる朝日橋のすぐそば。付近は近年、住宅が増えているが、今も鋳物工場があり、歩いていると鉄の匂いがプンとしてくる。
スナックの居抜きで始めたこともあって、店の外観は正直、入りにくい雰囲気がある。しかし、ここのそばがうまいのだ。いただいたのは、もりそばに3種のかき揚げ。そばは大手製麺会社、「むらめん」の生麺を使用し、香り高く、冷水でしっかり締められたそばは喉越しがいい。もり汁はかえしがしっかりしていて、そばをすすりあげるとダシの香りがふっと広がる。
よくできているのが3種のかき揚げだ。もともとかき揚げを2つ頼む人が多く、それならとかき揚げとゲソ天、紅しょうが天をミックスさせたのがこれ。タマネギの甘味に紅しょうがの酸味が絶妙に絡み、そこにゲソのうまみがのっかってくる。衣はカラッと揚がって油切れもよく、けっこうなボリュームにもかかわらず、パクパクいけてしまう。丁寧に作られているのがよくわかる、うまいそばだ。
実は店長の上嶋正春さんは、30年以上、さまざまな店を渡り歩いてきた和食の料理人。2024年、50歳も半ばを過ぎ、満員電車に揺られて店に通うことに疲れたのもあり、都心の仕事をやめ、地元で飲食の仕事を探し始めた。そのタイミングで、以前からの知人が経営していた『大衆鉄板くりちゃん』がそばの店を始めることを知り、店長に志願して『朝日の食堂 そば川』を始めたのだ。もとより調理の経験は十分すぎるほどある。だからこその、そばのおいしさなのだ。
開店当初は苦労続き
その経験は天ぷらの作り方にも生きている。舞茸や春菊などの火が通りやすいものは、注文を受けてからの揚げ。かき揚げやゲソ天、紅しょうがなどの時間がかかるものは、事前に8割がた揚げておき、注文を受けてから残り2割に火が入るように揚げ直してから提供する。なるべく早く、そしておいしい状態で提供する工夫がなされているのだ。
しかし、調理の経験が豊富だったとはいえ、最初からうまくいったわけではない。まず、最初に悩んだのがそばツユだ。開店当初のツユは、今から見ると薄かったという。そばのツユは飲むものではなく、そばを食べるタレのような位置づけで、いわゆる和食のツユとは考え方が違う。当初のツユは和食寄りだったのだ。すぐにかえしとダシのバランスを変え、今のようなうまみの詰まったツユに変えたという。ちなみにツユの味は土地柄も影響している。住宅が増えたとはいえ、川口はやはり工場の街だ。体を使って働く人は今も多く、濃いめの味つけが好まれることに気づいたのも、ツユ変更の理由だそうだ。
客入りについても、開店当初はなかなかに苦労した。なにしろ、周囲に飲食店がほぼないエリアに、事前のビラ配りもせずにいきなりオープンしたのだ。さらにスナック居抜きのため、店の中の様子もわかりにくい。そば屋だと気づかずそのまま通り過ぎる人たちばかりで、客足はさっぱりだったという。これはなんとかしなければと、上嶋さんがとった作戦が、店先に立って通る人たちにあいさつすること。なんとも素朴な方法だが、これが功を奏して、だんだんと客足は増えていった。
地元つながりで増えた客足
さらに上嶋さんが取り組んだのが、地元の居酒屋に飲みに行くこと。地元だけあって、行けば、誰かしら知り合いに会う。一緒に飲むうち「今、なにしているの?」「地元に戻って仕事している」という話になる。よその店で自分の店の話をするのはマナー違反なので、後日、連絡する形で『そば川』のことを伝えると食べに来てくれ、その話がまた別の知り合いに伝わりと、地元ネットワークで徐々に認知されていった。そもそも味が上等なこともあり、『そば川』は軌道に乗っていったという。
『そば川』は夜営業もしていて、お酒と簡単なつまみを楽しむことができる。やってくるのはもちろん、地元の人たち。たいてい1人で来るのだが、店に入れば誰かしら知り合いがいるのでテレビを見ながらあれこれと話し、自分のペースで飲んで帰っていく。飲食店でありつつ、地域の人たちの交流の場となっているのだ。
川口は都心に出るのに便利なため、川口で生まれ育った人は、社会人になっても川口に残ることが多い。旧知の仲間のネットワークが、ずっと続いているのだ。そのつながりに『そば川』はうまくハマった。駅前の店と違って行列ができるほどの大繁盛というわけにはいかないが、地域にしっかり根を張り、地元の人たちに支持されるというのは、とても素晴らしいことだと思う。
撮影・取材・文=本橋隆司








