ちょうどよくおいしいパン
『かいじゅう屋』があるのは、東京都江戸川区の江戸川。最寄り駅は東京メトロ東西線の浦安駅なのだが、歩くと20分以上かかる。隣の葛西駅からも行けて、こちらはバスを使えば15分ほどで行ける。店の近くには荒川と旧江戸川をつなぐ新川が流れている、のどかな住宅地だ。
シンプルな外観の店に入ると、対面販売のショーケースにパンが並んでいる。この日、あったのはウィンナーロールぱんにメロンぱん、チョコチップコッペぱんに食パンなどなど。
高加水のロデヴやバターがたっぷり使われたクロワッサンなど、最近のベーカリーでよく見るパンはない。言ってしまえば、なんてことのないラインアップ。しかし、食べてみると、これらが実にうまいのだ。
メロンぱんは、表面のクッキー生地がカリカリで、生地はもっちり。食感の違いが食べていて楽しく、甘さもフワッと香るバターも、しつこすぎずにちょうどいい。要は普通においしいメロンぱんなのだが、そのおいしさが、ものすごく絶妙なのだ。
ウィンナーロールも同じく。もっちりした生地は食べていて心地よく、ゆっくり噛み締めたくなるおいしさ。ウィンナーも旨味がしっかりしていて、ちゃんとおいしい。派手さはない、飛び抜けたおいしさもない。ただし、すべてがちょうどよくおいしいパンなのだ。
『かいじゅう屋』店主の橋本宣之さんは、富ヶ谷にある『ルヴァン』の出身。『ルヴァン』は自家製の天然酵母を使うベーカリーの先駆けで、カンパーニュなど本格的なハード系のパンが有名だ。そんな『ルヴァン』出身の橋本さんが、やわらかいパンがメインのベーカリーをやっているのが面白い。実はそこに至るまで、さまざまな紆余曲折があったのだ。
自家製酵母の名店で修業して
橋本さんがパンに興味を持ったのは、大学を中退してフリーターだった頃。大学に入ったもののピンと来ずにやめ、アルバイトをしてはアジア各地を旅していた。1990年代の後半、不景気を反映し、就職氷河期が始まった頃だ。
そんな状況で、橋本さんはパンに興味を持って、あちこちのベーカリーを食べ歩くようになる。
その中でも特に惹かれたのが『ルヴァン』。従業員を募集していなかったが、橋本さんはここで働きながらパン作りを学びたいと頼み込み、見習いを経て正式に雇用された。当時、『ルヴァン』は大人気店だったが、それは富ヶ谷店の話。橋本さんが働いていた調布の店は卸専門で、黙々とパンを作り続ける地味な環境だったという。その後、『ルヴァン』が長野県の上田にショップを出すことになり、橋本さんはオープニングメンバーとなる。心機一転、上田に行った。そこで自身の未熟さを知り、店の立ち上げを経験したこともあって、約5年で『ルヴァン』をやめることになる。
その後、都内のベーカリーを手伝った後、2006年、30歳で目白に『かいじゅう屋』を開く。対面販売の小さな店だったが、『ルヴァン』仕込みのパンは好評で、商売も順調だった。目白という、パンを食べ慣れた人が多い土地柄もあったのだろう。
目白の『かいじゅう屋』は、開店当初、『ルヴァン』に近いハード系のメニューがメインだった。しかし、だんだんとそこから離れ、やわらかいパンを作るようになっていく。当時について橋本さんは「やっぱり自分で決めていないなって思って、少しずつ違う材料を使うようになっていきました。見よう見まねでやっていたんですけど、それまで硬いパンしか作っていなかったので、やわらかいパンのほうが難しい気がしていました」と語る。
10年続けた目白店だったが、作業環境の制限が生じ、だんだんストレスを感じ始めてやむをえず閉めることに。そして今度は妻の美香さんが以前に働いていた縁もあり、立川にある鈴木農園内で『かいじゅう屋』を始める。そこはもともと「ゼルコバ」というベーカリーがあったのだが、山梨に移転したため、後釜として『かいじゅう屋』が入ったのだ。
生まれ育った江戸川の地へ
目白とは違ってのどかな土地でのパン作り。しかし、コロナ禍が始まり、病気を患う高齢の父が実家で一人暮らしているのを心配し、立川の『かいじゅう屋』は約3年で閉店。生まれ育った江戸川に戻り、かつて酒販店だった実家を改装して、あらためて2021年に『かいじゅう屋』を再々オープンさせた。
ここで意識したのは、自分の生活スタイルに合わせてパンを作っていくこと。そして、ちょうどいいパンを目指すこと。こだわりの食材を使えばいいパンは作れるが、価格も高くなるし、ニッチな存在になってしまう。とはいえ、原価をおさえ、そこそこのパンでいいとは思わない。手を抜くわけではなく、必要とされるおいしさのために引き算をして、ちょうどいいパンを目指したのだ。記事内で紹介したメロンぱんとウィンナーロールぱんのおいしさが、まさにこれなのだ。
橋本さんはこれについて「悪く言うと特徴がないというか、中途半端といえば中途半端なんです」と言うが、この生地は絶妙なバランスだ。実際、生地を作る際は粉のブレンド具合や加水量など、作るパンごとに細かく調整しているという。
人気メニューの山フランスパンは、フランスパンの生地を使って山型食パンに仕立てたもの。外側はパリッと中はもちっとした食感で小麦が香る、まさにフランスパンなのだが、食パンという気取らないあり方がいい。さりげないけどちゃんとおいしい、とても『かいじゅう屋』らしいパンに思える。
ちょうどいいパンは毎日、食べられる。もちろんこだわりを詰め込んだ、とがったパンもおいしい。ただ、個人的には一度、食べると満足してしまうことが多い。もちろん、いろいろなパンがあっていいし、そうあるべきなのだが、やっぱり、ちょうどいいのが一番、好きなのだ。50歳をすぎた、私の年齢のせいもあるかもしれないが……。
20年近くの紆余曲折のすえ、江戸川の『かいじゅう屋』にたどりついた橋本さん。現在のラインアップが「一番、落ち着く」という。また、毎日のパン作りにおいて、心と体を健康に保つことを意識しているともいう。その心持ちがパンのおいしさにあらわれているのだろう。なんてことはないのに惹かれてしまう『かいじゅう屋』のパンの秘密は、そこにあるのだ。
取材・撮影・文=本橋隆司








