「八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)」

不知八幡森(しらずやわたのもり)とも呼ばれるこの森は、入るとたたりが起きる、二度と出られないとの言い伝えが残る禁足地として江戸時代に広まり、関連する民話も多い。

  • 「八幡の藪知らずと平将門」……平安時代、乱を起こした平将門は朝廷の兵により首を討ち取られる。都に送られようとするその首を7人の影武者が奪い返そうとするが、藪知らずのあたりで彼らの姿は消え、藪の中に7体の土人形があったという。
  • 「やぶしらずの竹は何本あるか」……江戸に向かう旅人が、藪知らずの近くで子供に捕らわれた大きなあぶを助ける。その帰りに藪知らずを通りかかると、「竹の数を正しく数えた者にほうびを与える」という高札を目にする。村人の制止を振り払って藪に入ると、助けたあぶが「3003本」と竹の本数を教えてくれ、ほうびをもらって村に帰ったという。
  • 「やぶしらずの機織り娘」……夜中に藪の中から機織りの音が聞こえるようになったある日、近所の農家に美しい娘が現れた。機織りの道具である筬(おさ)が壊れたから貸してほしいというので貸すと、数日後、返しに来たその筬には血のりがついていたという。
  • 「やぶしらずに入った水戸黄門」……諸国を旅する水戸黄門が藪知らずに入り白髪の老人と出会う。老人いわく、「平将門討伐のために、平貞盛は八門遁甲(とんこう・中国の呪術)の陣を築き討伐に成功したが、この地に死門(あの世への入り口)を残すことになり災いが起きるので出入りを禁じた。今回は許すが、強く戒めておけ」。無事に藪を出た黄門は、里人を集めて固く戒めたという。

「夜泣き石(よなきいし)」

国府台の「里見公園」にある夜泣石は、長さ60×幅38×厚さ30cmほどの大きさ。
国府台の「里見公園」にある夜泣石は、長さ60×幅38×厚さ30cmほどの大きさ。

永禄7年(1564)、安房の里見氏と小田原の北条氏が激しく戦った国府台合戦。そこで討ち死にした里見弘次の末姫は、父の死が信じられず、遠い安房から戦場にやって来た。枯草は血で染まり、死体が重なり合う恐ろしい光景の中、必死に父を探すうち、ようやく父らしい武将を葬ったという小高い丘の上の石を訪ね当てた。だが、疲れ果てた姫はその石の上に倒れ、父を呼び続けるうち息絶えた。それからというもの、夜な夜なすすり泣く声が石から聞こえるように。数年経ったある日、一人の武士が石に線香をあげ、お経を唱えたところその夜からすすり泣きはぱったりと聞こえなくなったという。

「涙石(なみだいし)」

涙石があるのは弘法寺の正面階段。下から27段目の石段に1つだけ妙にすり減った石がある。
涙石があるのは弘法寺の正面階段。下から27段目の石段に1つだけ妙にすり減った石がある。

江戸時代の初め、弘法寺の檀家だった鈴木長頼は日光東照宮の造営に使う石材を伊豆から運ぶ役目を任された。ところが、石を船に積み、海を越え、江戸川をさかのぼると市川の根本付近で全く動かない。「これは弘法寺に奉納しろということか」と、長頼は石を降ろし弘法寺の石段に使ってしまう。その後、石を伊豆に手配してもどうしたことか一向に届かず、ついに幕府から責を問われた長頼はその石段で切腹してしまった。それからというもの、腰かけた石だけは雨でもないのにいつも濡れており、「涙石」と呼ばれるようになったという。

「真間の手児奈(ままのてこな)」

手児奈を祀(まつ)る『手児奈霊神堂』には入り江の名残りとされる池も。近隣には真間の井も残る。
手児奈を祀(まつ)る『手児奈霊神堂』には入り江の名残りとされる池も。近隣には真間の井も残る。

昔々、真間のあたりまで海の入り江があった頃、真間の井と呼ばれる井戸には人々が水汲みに集まり、その中にひときわ美しい娘・手児奈がいた。その噂は広まり、里の若者から国府の役人、都からの旅人までが結婚を迫った。手児奈はどんな申し出も断るが、手児奈のことを思い病気を患う者、争い傷つく者たちに心を痛め、思い悩んだ挙句「私さえいなければ」と入り江に身を投げてしまった。憐れんだ里人たちは、浜に打ち上げられたその亡きがらを井戸のそばに手厚く葬ったという。

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地道な伝承活動

お話を聞いたのは……市川民話の会 会長 湯浅止子(しずこ)さん

撮影=下里康子。
撮影=下里康子。

「今から51年前(1974年)、ある小学校の先生が古老に地域の昔話を伺って、もう一度聞こうとしたら亡くなってしまった。『急がないとお話も消える!』と、市川市の小・中学校の国語教員部会で有志を募り、お年寄りから民話の聞き取りを始めたんです」と、『市川民話の会』創立のきっかけを教えてくれたのは、会長の湯浅止子さん。以来、週末ごとに大きなテープレコーダーを担いで市内各地に伝わる話を地道に収集。現在は13名の会員が民話の会を開きながら伝承活動を行っている。

市川民話の特徴の一つは語り方。語り始めに「むかしむかしあったとよ」、所々の口調は「~だったとよ」、「~だったって」、そしてハッピーエンドなら「いちがさあけた(一期栄えた→一生幸せに暮らしました)」で語り収めるパターンが少なくないという。

最も古い時代の民話は「真間の手児奈」。日本最古の歌集『万葉集』の歌人・山部赤人が奈良時代初期にこの地を訪れ、手児奈を伝説の美女として歌に詠んでいる。禁足地で有名な「八幡の藪知らず(不知八幡森)」も5つほどの話が残る。平安時代の平将門、鎌倉時代の曽谷氏、戦国時代の国府台合戦で戦った里見氏、北条氏、足利氏など、歴史上の人物にちなんだ話も多い。

一方、「いんねえのじゅえむどん」なる一庶民の話が市川全域に残るのも特徴だ。いんねえ(船橋市印内)のじゅえむ(重右衛門)さんは、江戸時代に市川の各地で小作人として働いた実在の人物。奉公先で熱いお茶を飲んだ際、「たくあんを入れると冷めるよ」と女将に言われたことから、風呂の湯が熱いと叫ぶ主人の言葉に、大量のたくあんを湯船に入れて怒られるという「たくあん風呂」ほか、落語のようなゆかい、痛快話が50話以上もある。

しかし、なぜ市川には民話が多いのだろう。

「想像するに、一つには、市川は過去に大きな戦がなく、町が壊滅することがなかったからではないでしょうか。はるか昔から台地があり、ほぼ変わらない地形で人の流出もあまりなく、脈々と人々が息づいてきた。だから民話も口承で残り続けたのかなと思います」

市川の人々がつないできた民話の数々。読んで、耳を傾けてみれば、歩く街の景色はきっと違って見えるはず。

もっと詳しく知りたい方は

「市川民話の会」が編集・発行した『市川のむかし話[改訂新版]』は73話を採録(市川市文学ミュージアムにて販売、1650円)。「市川民話の会」では毎月のように民話イベントを開催。
詳細はHP(ichikawa.genki365.jp/G0000286/)で確認を。

取材・文=下里康子 撮影=高野尚人
参考文献=『市川のむかし話[改訂新版]』市川民話の会編 2012年ほか
『散歩の達人』2026年1月号より