堅牢なる名古屋城

名古屋城は天下普請によって築かれた城である。

天下普請とは徳川家の命によって日ノ本中の大名が動員された大規模な普請、即ち土木工事のことでじゃ。

江戸城や大坂城、彦根城や駿府城など多くの城が築かれた他に、安倍川や神田川をはじめ治水工事もなされておる。

天下普請の主な目的は、諸大名に任せることで消耗させ、反乱を予防すること、東海道を押さえる名古屋城や駿府城、中山道を押さえる彦根城のように反乱へ備えること。

そして徳川の命に諸大名が従ったという既成事実を作ることである。

徳川家は天下普請と征夷大将軍への就任によって天下人の交替を日ノ本中に印象付けたのである。

名古屋城が築かれた慶長15年(1610)は未だ豊臣家が健在であり、豊臣方が兵を挙げた折に日ノ本随一の交通の要所である尾張を守るため、実に堅牢な城として築かれておる。

江戸城や大坂城に次ぐ大きさを誇る層塔型天守、

巨大な二つの馬出に、幾kmにもわたる多聞櫓、

隅を固める櫓は天守級の大きさであるわな。

円熟した築城技術によって現世においては最強の城の候補として語られるほど、随一の堅牢さを誇るまさに戦のための城である。

平和を見据えた街、名古屋市街

では名古屋城下町はいかように作られたのであろうか。

というわけで儂が参ったのは名古屋城三の丸、本町門跡である!!

名古屋城はその広大さゆえに三の丸が開発され官公庁や宅地になったので、現世の者たちが思ういわゆる名古屋城は二の丸以内となっておるわな。

儂がおるこの本町門は城の大手道、そしてこの門を出れば本町通りじゃ。

現世の言の葉を用いるならば「めいんすとりいと」じゃな。

城の大手は敵方が攻めてきた時、一番に攻撃を受ける場所。

故にこの大手は道を曲げたり、行き止まりを作ったり、或いは武家屋敷を並べるなど敵方が攻めにくいような工夫がなされるのじゃ!

城の守りと城内だけにあらず、城下町から敵の進軍を阻むのが定石である!!

ということで名古屋城の大手本町通りを見てもらおうかのう。

見ればわかる、恐ろしいほどに直線的であろう。

名古屋の城下町は京都に倣い碁盤割となっておってな、縦横の道が全て直線で作られておる。

そして本町通りの一本西側にあるのは長者町通。

長者町通りは長者、つまりは豪商が家を構えたことからつけられた名前じゃ。

先にも申した通りこの地は名古屋城の一等地。

定石ならば家臣たちの武家屋敷が立ち並ぶような場所が商人の街となっておるのじゃ!

徳川殿は城の作り方を忘れてしまったのか、あるいは途中で飽きたのかと思うかもしれぬが、これは徳川殿の覚悟が見える街づくりであると儂は考えておる。

碁盤割の街は交通の便に優れ、街をきれいに保ちやすく、どこが誰の屋敷かが明瞭であるため治安の維持もしやすいのじゃ。

そして街の中心に商人が集まれば、人が集い商いも盛り上がるであろう。

徳川殿は守りに適した複雑な街づくりを捨て、民の暮らしやすさを重視したことがわかるであろう。

徳川殿はこれより始まる天下泰平の世へ向け、武士が中心の世から商人が中心の世を作るべく、商人の暮らしを優先した街をこの名古屋に築き上げたのであろう。

暮らしやすい街づくりは即ち街の発展へとつながる。

徳川殿の思惑通りか、名古屋の街は日ノ本随一の商人の街として大きくにぎわうこととなった。

名古屋の優れた交通と産業の影響を受けて日ノ本で屈指の豪商となった伊勢商人は、三井や三越、イオンといった現世の大企業の源流であるし、他にも江戸時代に描かれた浮世草子に「商人にとって最も大切なことは名古屋言葉を話せること」と記されておったりもする。

戦乱の世を終結させる徳川殿の強い決意と覚悟が名古屋の街並みに現れておるのじゃ。

此度紹介した他にも名古屋城下町には、刀鍛冶が集った鍛冶屋町や、呉服町、木材商の木挽町など各商人がひと処に集まったことが由来となった町名が多く残っておる。

かようにして商いを重視して作られた名古屋の街であるが、ただ守りを犠牲にしたわけではなくてな、城の南や西には寺町が設けられ、城下町の防衛線としての役割を担っておるのじゃ。

そして、この寺町が元となってできたのが大須商店街や円頓寺(えんどうじ)商店街であるぞ!

円頓寺商店街から堀川に渡る橋。
円頓寺商店街から堀川に渡る橋。

終いに

此度は特異なる名古屋の街を紹介して参ったが、今の日ノ本で人口が集中する都市の多くを作ったのは我ら武士である!

現世の県庁所在地のうち、30以上は戦国武将によって築かれた城下町が元となっておるわけじゃ。

徳川殿が築いた江戸、秀吉が築いた大坂、伊達政宗が築いた仙台、松山も熊本も福岡も広島も戦国武将によるものである。

無論、我が金沢の街もじゃな。

明確な例外を挙げるとするならば札幌、京、神戸あたりじゃな。

武士が築き発展した町は江戸時代とともに武士の天下が終わると、区画整理や都市開発によって現世の者たちが暮らしやすいようにその名残を残しつつも姿を変えていくこととなった。

じゃが! 名古屋の街は初めから民のために築かれておったがために、街の様子がさほど変わっておらぬのじゃ!

これによって名古屋は街中の至る所に江戸時代の名残や重要な史跡が残っておる。

特に儂が此度歩いた外堀通りはまさに三の丸の外堀があった場所でな、開発されてはおるけれどもかなり広範囲に石垣や土塁が残っておる!!

名古屋に訪れた折には街に潜む史跡たちを探しながら進むのもまた一興であるぞ!

さて、本年の大河ドラマもまもなく終いとなる。

故に次回の戦国がたりでは幕末の尾張藩について語ってまいろうと思う。

楽しみに待っておるが良いぞ。

それではまた会おうさらばじゃ!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)

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