我らの時代の「カレンダー」、太陰太陽暦と閏月

現世の暦ではひと月は2月を除き、30日あるいは31日であるわな。

これは太陽の動きを基にした考え方で、地球が太陽の周りを回る365日を12に分割した値である。

じゃが、地球が太陽の周りを一周するのは厳密に申すと365.2421……日らしいで、4年でおよそ1日余りが生まれるで閏日を設けるというわけじゃ。

ここまでついてきておるかの。

illust_24.svg

では我らの時代はどうかと申せば、我らは太陽ではなく月を基に暦を定めておった。

新月を1日(ついたち)として月が満ちて再び欠けるまでがひと月、次の新月が新たな1カ月の始まりというわけじゃな。

月が満ち欠けする周期は約29.5日だで、我らの時代の1カ月は29日か30日である。そして現世と同じく1年は12カ月であった。

じゃが、これだけでは1年が355日となって今の暦より10日ほど短くなり、それによって暦と季節がずれ始めるのじゃ。

暦はそもそも季節を確かめる手段としての役割があるで、これでは使い物にならぬ。

故にこのずれを改めるための仕組みがあったのじゃ!

それが閏月と呼ばれしものである。

歴史が好きな者はどこかで出会ったことがある言の葉であろう。

閏月を簡単に説明すると2、3年に一度、1年が13カ月になるということじゃ。

これだけ聞くと「12月の後に13月がくる」ような印象を受けるやもしれん。

然りながら閏月の場所はどこに設けられるかは年によってことなっておったのじゃ!

例えば、閏月が3月と4月の間にあるときは「閏3月」と呼ばれるといった次第じゃな。

因みにわしの命日は慶長4年閏3月3日である。

では、この閏月をどこに入れるのかを定めておるのが二十四節気というものなのじゃ。

どこに閏月を入れる?二十四節気とは

この二十四節気は「太陽を基に季節を24分割した暦のようなもの」である。

二十四節気は、立春、立秋、小寒などの「節気」と、夏至や冬至、春分などの「中気」に分類される。

この辺りは皆も聞き覚えはあるのではないか?

これは各月に割り当てられておって、例えば8月なら節気が白露(はくろ)で、中気が秋分である。

じゃが先に申した通り、月を基準とした暦は太陽を基準とこの二十四節気ともずれが生じるわな。

本来ならば8月にあるはずの秋分が9月にきてしまう、と言ったことが起こるわけじゃ。

こういったことが起きた時に差し込まれるのが閏月である!

端的に申せば、月に該当する中気がこぼれてしまった時、その翌月を閏月として暦を整えるというわけじゃな。

 

ちとこの辺りは複雑な話であるで、詳しく知りたいというものは暦について調べてみるが良い!

 

このようにして、月だけではなく太陽の動きも暦の基準にしておったで我らの時代の暦は「太陰太陽暦」と呼ばれるようじゃな。

信長様を取り巻く暦問題

さて、現世において暦は統一されておってどこにいても同じ暦で生活ができるわな。

じゃが、我らの時代はそうではなかった!

各地によって異なった暦を用いておって、場所によって日付が異なったりしておったのじゃ。

これにまつわる大きな出来事の一つに、信長様の暦問題があった。

京の都で使っていた暦と、信長様が使っていた尾張の暦は異なっておった。

天下統一を目前に控えておった信長様は、暦の統一も視野に、尾張の暦を取り入れるように朝廷と交渉なさったのじゃ。

京の暦では「日食が起こる日」を正確に予測できぬ場合があった。これが信長様が暦を統一しようとした理由の一つなのじゃが、この出来事を以て「信長様は朝廷を軽んじておる」と感じる者が現れた。本能寺の変の原因として、信長様と朝廷の不和が挙げられることがあるわな。明智光秀殿が謀反を起こすきっかけとなってしまった出来事だったのかもしれんのう。

日ノ本で暦を統一した方が便利なのはもちろんのことながら、実際に京の暦がもとで宮中行事が滞ったこともあって、信長様のお考えはまさに慧眼と言えたのじゃがな。

本能寺の変は三日ある?

今使われておる、いわゆる西暦は日ノ本では明治時代に取り入れられたのじゃが、西洋で取り入れられたのは1582年。それまで長い間使われておった「ゆりうす暦」なる暦から、今の「ぐれごりお暦」に切り替えられたのじゃ。

1582年と言えば本能寺の変の起こった年であるわな。

故に“本能寺の変の日は三日ある”という表し方をすることがあるのじゃ!

先ずは無論、日ノ本の暦の天正10年6月2日。

続いて当時の西暦であるユリウス暦の1582年6月21日。

そして現世で使われておるグレゴリオ暦の1582年7月1日じゃな。

本能寺の変はルイスフロイスによってローマへと伝えられておるから、西洋の暦でも二通りの表し方があるということじゃ。因みにそれまで使っておったユリウス暦なるものは閏年が400年に100回、即ち4年に一回設けられておったのじゃが、今皆が使っておるグレゴリオ暦は閏年が400年に97回となっておる。

どちらも4で割り切れる年を閏年とするのは共通しておるが、グレゴリオ暦では「100で割り切れるかつ400で割り切れない年は閏年としない」そうじゃ。

だで今の暦は、厳密に申せば閏年は4年に一回というのは正しくないということになるわな。

因みにグレゴリオ暦の名は当時のローマ教皇グレゴリウス13世の名から来ておる。信長様は天正遣欧使節を通して交流を図り、安土城下を描いた屏風絵をグレゴリウス13世への贈り物として携えさせておった。

じゃが、天正遣欧使節が出発したのは1582年の2月、そしてグレゴリウス13世に謁見したのは1585年だで、信長様が生きておるうちの交流は叶わなかったということになるわな。

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!

ちと小難しい話を致したがついてこれたかのう?

然りながら歴史を知る上でこういった知識も助けとなるで、覚えておいて損はないじゃろう。

先に申したユリウス暦は現世より2000年以上前に作られたにもかかわらず、1300年程で10日程度しか相違がないそうじゃ。

暦とはまさに先人たちの叡智の結晶、現世の皆の暮らしになくてはならぬものであるわな。

時には主らの日常に潜(ひそ)む歴史を、たどってみるのも一興であろうな!

といった次第で此度の戦国がたりは以上といたそう。

これからも確と歴史の面白き話を記して参る。

次の話を楽しみに待つが良いぞ!

文・写真=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)