将軍家は、実子を擁する陣営ではなかった!
前回、応仁の乱は将軍家の後継争いと一概には言えぬと申したわな。
これを示すのが、10年以上の戦を通して細川殿の東軍が官軍、山名殿の西軍が賊軍とされ、足利義政様や日野富子様は一貫して東軍に属しておったという「事実」である。
我が子である義尚様を将軍に推す西軍ではなく、東軍に属しておったのじゃ。
これは開戦の折、細川家が将軍の御所を抑えておったことや、西軍に属する宗全殿や畠山義就殿が義政様に対して反発的であったことが理由にあげられるのう。
かくして東軍は官軍として次期将軍・足利義視様を総大将として据えるのじゃがここが応仁の乱を難しくしたのじゃ。
振り回される義視様
前回の戦国がたりで紹介したが、東軍事実上の大将である細川勝元殿は義視様の後見人、すなわち後ろ盾であった。
……のじゃが。
義尚様を将軍にしたい富子様が東軍にいることで、勝元殿は義視様を将軍に推しにくくなったのじゃな。
義視様を将軍に推すことで快く思わなかった富子様が、万が一、西軍側についてしまうと、せっかく「官軍」という有利な立場を取れている状況が一変するかもしれなかったのじゃ。
勝元殿からすれば、義視様が将軍にならずとも東軍が勝利すれば地位は安泰、なれば寧ろ義尚様を将軍とした方が強い発言権を持つ富子様を味方にでき、好都合であった。
と言った理由で義視様は頼りにしておった勝元殿に梯子を外された形となって、一気に立場を失っていく。
それどころか勝元殿は義視様に隠居の打診をしておったと話が残るほどじゃ。
更にここで義視様に不利な出来事が起こる。
義政様の側近で、かつて義視様の失脚を目論み追放された伊勢貞親殿が政に復帰したのじゃ。
これは戦によって不安定となった情勢を打破する為に義政様が呼び寄せたのじゃが、義視様からしたらたまったものでは無いわな。
義視様は辛抱たまらぬと、貞親殿を遠ざけるようにと義政様に願い出るのじゃが却下され、居場所のなくなった東軍を出奔するのであった。
そこに目をつけたのが、西軍の山名宗全殿であるな!
一変する構図
山名宗全殿は出奔した義視様を迎え入れ、西軍大将に据えたのじゃ。
これによって、幕府と反幕府の構図が一変。
いわば「東幕府」と「西幕府」の戦いへと複雑化していくこととなるのじゃ。
さて、この一連の動きに、義視様の兄で現将軍の義政様は激怒。朝廷に働きかけて義視様の官位を剥奪したばかりか、朝敵として定め追討令を出した。
居場所を奪われ、半ば流れ着いたような形で西軍に属した義視様からすれば、筋違いの怒りに感じたのではなかろうか。
その後の応仁の乱の流れは以前話したように複雑化した後に収まっていくのじゃが、義視様は西軍大将として終戦に向けて奔走されておったようじゃ。
戦の後は長く隠棲生活を送り、九代将軍となっておった義尚様が亡くなると共に上洛。
義政様の意向もあって、義視様の嫡男・義稙(よしたね)様を将軍に据え政へ再び携わることとなった。
ちなみに義視様は、義政様とは和解をされたような資料が残っておるのじゃが富子様とはそうはいかず、それどころか義政様と義視様の死後に富子様と義稙様が政争を繰り広げ、最終的には富子様の勝利に終わるという、もはやため息が出そうな展開が待っておるのじゃ。
因みにこの争いは明応の政変と呼ばれ、応仁の乱と並んで戦国のきっかけとして語られる重要な出来事だで、またどこかで紹介できたら良いのう。
そして戦国時代へ
して、この戦をきっかけに従来の支配体制は大きく揺らぐこととなった。
此度は紹介できんかったが、斯波家もこのころ家督争いを起こしておって、畠山家の家督争いと並んで応仁の乱を引き起こした大きな要因を作っておる。
この時に斯波家を見限って独自に成長したのが、戦国時代でも有名な朝倉家じゃな。このように主家を見限り独自に勢力を伸ばす家が増えたのじゃ。そのきっかけとなったのが応仁の乱、ということじゃ。
そして勢力の伸ばし方にもいろいろあるのじゃが、大きくは三つに分けられる。
一、これまで京で政を行っていた守護大名が領国に下向して、直接支配をするようになって勢力を拡大した者。武田家や今川家、そして応仁の乱で西軍の主力であった大内家が代表的じゃ。
二、兵力の確保のために本来重要視されておった家名や家格が軽視された為に力をつけた国衆。徳川家や尼子家、伊達家がその例で、伊達家は応仁の乱の後に富子様に多くの金品や馬などを献上し、気に入られたことが後の勢力拡大につながっておるとも言われておる。
三、応仁の乱で疲弊した守護大名に代わって実効支配を行った守護代や家臣達。代表的なところで言えばやはり我が主家である織田家であろう!!
そもそも織田家は越前国に出自を持ち三管領が一つの斯波家に仕えておって、応仁の乱の戦後処理として斯波家に従い尾張に入ったのじゃ。思えば朝倉家と織田家は共に斯波家家臣だったのじゃな。そう考えると姉川の戦いや金ヶ崎の退き口なんかも因縁を感じるじゃろう?
……と、こういった者たちの台頭が始まって、実力主義の戦国時代の基盤ができたんじゃな。
終いに
さて、長くなった此度の応仁の乱解説はいかがであったか!!
皆に話したいことが多すぎて際限がなくなってしまうでこの辺りと致すが、何にせよ応仁の乱によって室町幕府や守護大名、更には朝廷までもその権威を失った結果が戦国時代ということだけでも覚えておくと歴史の見方が変わるであろう!
誠のことを申せば、四十を超えたこの「戦国がたり」の連載の中で、此度の応仁の乱は記すのに最も難儀した話であった。
少しでも皆に伝わるようにと努めて参ったが、伝わっておるかのう。
内容が複雑を極め諦めて端折ったところも少なくない、否、殆ど伝えられておらんというのが適切であろう。
故にこれを元に興味を持ったものは更に調べてみてほしい。
多くの情報を得れば得るほどよく分からなくなって参るのが応仁の乱の困るところでもあり、面白いところじゃ。
此度の話は応仁の乱の顛末を描いた『応仁記』を元としたのじゃが、これは現代語訳もされておる著名な書だで、追ってみるのもたのしかろうな。
日本史において朧げにされがちな室町時代であるが、今の日ノ本のあり方に最も影響を与えたとも言われるほどに重要な時代である。
故にこの混沌の室町時代に興味が出たならばうれしく思う。
誠に長くなったが此度はこの辺りにいたそうかのう!
それでは次の戦国がたりで会おう。
さらばじゃ!
取材・文・撮影=前田利家(名古屋おもてなし武将隊)