登場人物
桂梅太郎(タコ社長)……「とらや」裏手にある朝日印刷の経営者。この頃に限って言えば、会社の経営はまあ順調であった様子。
車竜造(おいちゃん)……柴又帝釈天参道の団子屋「とらや」6代目店主。亡き兄の娘・さくらを引き取って養育するも、その兄は……。
車つね(おばちゃん)……連れ添って10余年の竜造の配偶者。世話焼きで人情に厚く涙もろい。割烹着姿は柴又イチ!
御前様……題経寺(柴又帝釈天)の住職。近隣住民の崇敬を集める徳人だが、時折見せるとぼけた人柄もまたご愛嬌。
長女誕生~キミの名は……
昭和35年初夏、葛飾柴又……。
一昨年の東京タワー完成がのろしとなって、地場の鉄工所、染め物工場などは早くも4年後オリンピックの準備に沸き立っていた。少し前までは農作物を積んだリヤカーが行き交っていた街道筋にも、資材を積んだトラックやオート三輪が幅を利かせる。
朝日印刷社長・桂梅太郎の第二子となる長女が誕生したのはそんな頃だった。
夫人が無事出産を終えた翌日のこと。梅太郎は汗を拭いながら隣家の団子屋「とらや」の暖簾をくぐった。
「いやあ、昨日はうちの坊主預かってもらっちゃって助かったよ」
「いやだよ社長さん、困ったときはお互い様じゃないか。それより、よかったよ。無事に産まれてさ」
「ほんとほんと。ところで社長、名前はどうなったんだ?」
梅太郎は茶の間の上がり口に腰を下ろして、団子屋の夫婦、竜造・つねに話し始めた。
「聞いてくれよ。オレ一睡もしないで考えちゃったよ、占いとか辞書とか見てさあ」
「おお、お前にしちゃえらいじゃないか」
「ほんと。なかなかできないよ。で、どんな名前だい?」
「それそれそれ。それなんだよ。どうしてもひとつに絞れなくてね。2、3の候補を頭に入れて区役所に行こうとしたんだよ。そしたら家を出たところで御前様にばったり会っちゃってーーーー
「あー、社長さん社長さん」
「あ、これはこれは御前様、ご苦労様です」
「このたびはお子を授かったそうじゃありませんか。あー、めでたい、めでたい」
「ありがたいお言葉、恐れ入ります」
「ところで社長さん、名前は決まったのかな?」
「それがですねえ、まだ決めかねてまして……」
「おお、それはいかん。困ったぁ、困った」
こいつはきっと話が長くなる……そう察した梅太郎は、早々に切り上げようとした。
「ご、御前様、急いでおりますので、これで……」
「まあ、まあ、急いては事を仕損じると昔から言うではありませんか。ちょうどいい機会ですから、一緒に考えてあげましょう」
「は、はあ」
「そもそもお釈迦様は正式には釈迦牟尼と称されてな、天竺の言葉でシャーキヤ族の聖者という意味であって……」
「ご、御前様?」
「うん?」
「それ長くなるんでしょうか?」
「ああ、いやまあ……」
「名前、今日中に届け出ないとマズいことになっちゃいまして……」
梅太郎は早く打ち切りたかった。
「わかりました。それならば当山の一字を採って栄子とするがよろしい」
「へっ?」
柴又帝釈天ーーその正式な山名を経栄山題経寺という。それはさておき、あまりにも安直な御前様の提案に、梅太郎は口ごもるしかなかった。
「おや、お気に召しませんか。ならば経子ではいかがかな」
「あ、ありがたく頂戴いたします」
そこまで言われちゃウソでもそう答えるしかないだろう。
「ふぉふぉふぉふぉ。南無妙法蓮華経~」
ーーーーさすがにオレも困っちゃったよ」
「そいつは災難だったな」
「で、栄子にしたのかい? 経子にしたのかい?」
「それが御前様と別れた後、今度はさ、備後屋の倅(せがれ)とか参道の若い奴らに出くわしちゃってーーーー
「おお社長、めでたいね。今度は女の子だって」
梅太郎を見止めて数軒先から声をかけたのは参道のみやげ物店「備後屋」の倅だった。
「なんて名前だい?」
一緒にいた他のひとりが問いかけると、その場の若い衆が口々にからかい始めた。
「印刷屋の娘なら墨子だよスミ子」
「それを言うなら紙子じゃねえか」
「刷子。スリ子ってのはどうだ?」
「ははは、それじゃあ犯罪者だ」
「違げえねえ」
仲間たちの悪い冗談に、たまらず梅太郎は口を挟む。
「馬鹿言っちゃいけねえよ。商売がらみで名前付けられちゃ、このへん草子や団子ばかりになっちまうじゃないか」
「お、社長、うまいこと言うねえ」
ーーーーなんてことがあってさ、もうオレ、頭が混乱しちゃったよ。いっそのこと、言われた名前、全部ひっつけてやろうかと思ったね。栄子経子墨子紙子刷子草子団子ってね」
「馬鹿。それじゃ落語じゃないか」
「で、どうしたんだい? ちゃんと名前決めて区役所で手続きしたんだろうね?」
「それがさあ、区役所行ったらちょうど隣の窓口に、なじみの娘がいたんだよ」
「誰だい? そのなじみって?」
にわかに渋面になった、つねが聞く。
「あ、金町のキャバレーのホステスなんだけどね」
「やだよ、子供が生まれる時に女遊びかい」
「ち、違うよ、違うよ、同業者の付き合いで2、3度行っただけだよ」
「キャバレーの話はどうだっていいじゃないか。名前の届け出はどうなったんだよ」
「いやあ、それがねーーーー
「あら、印刷屋の社長さんじゃなぁい」
「どうしたんだい? こんなところで」
「社長さんこそ」
「オレは娘が生まれたんでね、その届け出だよ」
「…………」
女はふいに表情を曇らせた。
「どうしたんだい?」
「いいわね幸せで……」
「何言ってんだい。そっちも幸せなんだろ? 二枚目のダンナとさ」
「社長さん、もうダメなの……」
「え? 別れるのかい?」
その女は無言でうなずく。
「あんたなら、もっといいオトコ、見つかるよ。だから、な。もう泣くなよ、ひとが見てるから……」
ーーーーって、さんざん泣きつかれちゃったんだよ。挙げ句は『アタシ、社長さんみたいな人と一緒になればよかった』なんて甘えられちゃって。はははは」
「なにやってんだ、まったく」
「それで名前はどうしたのさ。ちゃんと出したんだろうね」
「いやあ、それがさ。結局、決められなくて、その娘の名前拝借しちゃったんだよ」
「はいしゃくぅ~?」
「ど、どういうことだい?」
いぶかしげに尋ねる竜造とつね。それをしり目に、梅太郎は悪びれもせず言った。
「その娘の名前をウチの子の名前に決めちゃったんだよ、“あけみ”って」
唖然、という名の空気がお茶の間を支配した。
「はぁーあ……馬鹿だね、まったく」
「さあっ。さくらちゃん学校から帰って来るから、晩ご飯の支度しなくちゃね、支度っ」
呆れ果て、その場をたつ夫婦。ひとりお茶の間に残される梅太郎。
「え? オレ、なんかマズイことしちゃったかな? ねえ? ねえ?」
「おおい、あけみ~。お父ちゃんだぞ~。元気にしてたか~?」
自宅に戻った梅太郎は、工場の様子を気に止めることもなく、夫人と赤子が横たわる床の間に直行した。
「シッ。いま寝付いたとこなんだからっ」
添い寝をしている夫人が声を潜めて抑える。
「おおおお、おとなしく寝てるなあ」
梅太郎はすやすや眠る赤子の顔を覗き込んだ。
「そうでしょ。きっとおしとやかに育つよ、アタシに似て」
「うんうん。この娘は秀才になるよ、オレに似てさ」
慌ただしい暮らしのなか、ふいに灯った小さな幸せを分け合う父と母。
10数年後、そんな淡い期待が儚くも砕け散ることになろうとは、この時は知るよしもない二人だった。(つづく)
取材・文=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ
※この物語はフィクションです。映画「男はつらいよ」シリーズおよび同作の登場人物、企業名、店舗名とは、ほぼほぼ関係ありません。たぶん。