寅さんが推す酒はあるのか?
寅さんはさまざまな状況で酒を飲む。
それは日本酒であることが多く、おそらく寅さんは日本酒党だと思う。
そんな寅さんの日本酒へのこだわりが如実に表れているシーンと言えば、まずこれだろう。第41作『男はつらいよ ぼくの伯父さん』、浅草のドジョウ屋「飯田屋」で未成年の満男に酒の飲み方を伝授する場面--
「いいか、片手に杯を持つ、酒の香りをかぐ、な。酒の匂いが鼻のシンにずーっと染み通った頃、おもむろにひとくち呑む。さあ、お酒が入っていきますよということを五臓六腑に知らせてやる、な。そこで、ここに出ているつき出し、これを舌の上にちょっと載せる。これで酒の味がぐーんと良くなる。それからチビリチビリ、だんだん酒の酔いが身体に染み通ってく……それをなんだお前、駆けっこして来たヤツがサイダーを飲むみたいにガーッと飲んで、胃袋が驚くよ、それじゃ。分かったか?」
言わすと知れたシリーズ後半を代表する名シーンだ。
ただあくまでも「飲み方」についての話で、シリーズを通しても寅さんが「うまい酒」を語っている場面はどうも見当たらない。
でも、寅さんが好む銘柄がきっとあるんじゃないか--40年来の寅さんファンにして、30年来の日本酒党の筆者としては、いつもそんなことを勘ぐっていた。
そしてある時、その積年の気がかりを解消する瞬間がふいに訪れた。
第40作『寅次郎サラダ記念日』の冒頭だ。
第40作『寅次郎サラダ記念日』 開始から1分31秒、その瞬間
お馴染みのテーマの前奏とともに、映し出される松竹富士。その直後、ほとんどの作品ではここから夢の寸劇シーンとなるが、第40作では寅さんがさくらに宛てた手紙の朗読が流れる。
さくら、元気か?
おまえの肉親やおいちゃんおばちゃんたちに変わりはないか?
俺は相変わらずの旅ガラスだ……
画面は、プワーンと警笛を鳴らして動き出す、懐かしい国鉄色のキハ58系2両編成。離れる駅は小海線佐久広瀬駅、日本のJR線鉄道駅の最高地点・野辺山駅から2駅小諸寄りの駅だ。
列車は何度か千曲川と交差しながら進む。車窓に流れるのは沿線の秋景色。寅さんはボックスシートの窓際に座り、ひとり景色を眺める。窓の桟(さん)には日本酒の小瓶とガラスの猪口。アテはスルメかカワハギか……。
手紙の朗読が終わると、寅さんは手酌で猪口に酒を注ぎ、口に運ぶ。
そして開始から1分31秒、その瞬間が訪れる。寅さんの……、いや渥美清の口もとが、声なき声でつぶやく。「んまい」と。
これ、もう演技じゃない。そんな気がする。
渥美さんは、この頃すでに身体を壊していて、ほとんど酒を口にしなかったというから、唇を湿らせた程度だったかも知れない。それでも、その仕草は哀愁と品格があって、何よりうまそうだ。
こんな酒、自分も飲んでみたい!
何という銘柄だろう?
瓶のラベルには何と書いてある?
画面を巻き戻して、窓の小瓶を何度も観返し凝視してみる。
すると辛うじて「本菊泉」と読めた。検索すると醸造元は『橘倉酒造』というらしい。住所は長野県佐久市。シーンは小海線の車内だから地酒と言っていい。
どんな酒なんだろう? 探求心は爆発寸前! もう行くっきゃないわな。
寅さん推しの酒、探し求めて佐久平
東京から北陸新幹線で1時間ちょっと。佐久平駅に降り立つ。ここから目指す『橘倉酒造』最寄りの龍岡城駅までは、小海線で小淵沢方面に6駅だ。
乗り継ぎや本数の都合で、蔵の始業時間の1時間も前に龍岡城駅に着く。
「早く着いたら、駅前のド○ールで時間つぶして……」
などとナメていた都会人の浅はかさを笑ってくれい。駅前には何もない。気持ちいいくらい何もない。もちろんタクシーなど停まっているハズもない。
ここにいても仕方ないので、とりあえず片道2.5kmの道のりを歩いて向かう。まあ、のんびり行こう。先を急ぐ旅なんざ寅さん的じゃない。
しっかし、この暑さはなんだ!
初秋というのに、信州というのに、午前中にも関わらずすでに気温は33℃。天はワシを見放したか……。
くじけそうになる自分を励まして田園のなかをひたすら歩く。途中、大きな川を渡る。おお、これが千曲川か。佐久平に豊潤をもたらす母なる川だ。
暑さを忘れて橋の上でしばし足を止める。遠く北の空を仰げば浅間山に続く山塊、振り返れば佐久平に広がる田園……。思えば酒を探し求める旅の途中で、米と水、酒を醸し出す風土を体感できるなんて素晴らしいではないか。
炎天下の行軍の負け惜しみではない。ホントそう思う。
ついに出会えた「本菊泉」!
千曲川を越えてしばらく歩くと民家が増えてきた。すると左手に酒蔵らしき古風な白壁の建物群が。正面にあたる西側にまわってみると、併設の直売店の脇に積み上げられた「本菊泉」の菰樽。間違いない。ここが『橘倉酒造』だ。
直売店の開店を待って中に入り、一目散に「本菊泉」の小瓶(300ml)を探す。店にとっちゃ立派な不審者だな、こりゃ。
そして、冷蔵棚にそれらしきものを発見。でも、よく見ると映画とは瓶の形状もチト違う。
「こちらは「本菊泉」の生貯蔵酒ですね。映画で使われたのは、通常の「本菊泉」です。残念ながら今は一升瓶だけで、小瓶は扱ってないんですよ」
と声をかけてくれたのは、『橘倉酒造』取締役の井出太さん。
旅も人生も映画どおりにゃいかないものよ。でも、こうして「本菊泉」に巡り会えたのだ。細かいことなんざどうでもいい。
「撮影スタッフが小諸駅前の酒屋で撮影に使用する酒を探していたところ、目に止まったらしいですよ」(井出さん)
あまたある日本酒のなか、わざわざ小海線沿線の地酒をチョイスするなんて、1シーン1シーンに精魂込める山田組のこだわりがうかがえる。
老舗酒蔵と国民的映画
『橘倉酒造』がこだわるのは、昔ながらの手作り。「寒造り」と言われ、秋に収穫された米を11月~3月の寒い時期に仕込み、出荷する伝統的な手法だ。
近年、合理化、オートメーション化が進む酒造業界。生産性を重視するがゆえに、室温の自動制御によって通年で酒を醸造している酒蔵が増えるなか、職人の手づくりにこだわる。
また、原料となる米や水も佐久平の気候風土が育んだもの。まさに地酒だ。
そうして造られている酒を『橘倉酒造』は「文化の滴(しずく)」と評する。
思えば「男はつらいよ」シリーズも、
CGなど流行りの映像技術を多用しない昔ながらの撮影
妥協のないロケハン
季節感や地域性を大事にする場面設定
などなど、職人的なこだわりに裏付けられた作品であり、間違いなく日本の常民文化の神髄だ。
国民的映画と、この酒この蔵が見えない糸でつながる。う~ん、ここまで来た甲斐があったってもんだ。
小海線でシーンの再現を試みる
四合瓶、小瓶、焼酎などいろいろ購入して、『橘倉酒造』を後にし、来た道を駅まで戻る。駅に着く。列車が来る。さらば龍岡城駅。
ここで本来なら映画のシーン通り、佐久広瀬駅から小諸方面に向かう列車内で、千曲川の車窓をバックに「本菊泉」の小瓶とツマミのカワハギの写真を撮りたい。いや撮らねばならない。
しかし、今回は小諸にも用事がある。
小淵沢方面に戻ってまた引き返していたら、相当時間がかかりそうだ。仕方なく、龍岡城から小諸に往く列車内で飲酒と撮影を敢行する。
なんか気乗りしね~な~。
というのも、分かっちゃいたが乗った列車はまだケツの青い平成生まれのキハ110。かたや映画で寅さんが乗ってたのは昭和36年(1961)デビューの古豪キハ58。
おまけに車内は地元の乗客でけっこう混み合い、ベストポジションである進行方向左側のボックスシート窓際を確保できない。で、もちろん検札に来る車掌もいないワンマンカー。映画とは何もかも違い過ぎるのだ。
それでもどうにかこうにか、「本菊泉 生貯蔵酒」小瓶withカワハギの写真は撮った。が、さすがに周囲の視線が気になって飲酒は躊躇(ちゅうちょ)した。小海線も中込から小諸あたりは、すっかり生活路線なのだ。
小諸なる古城のほとりにて
列車は終点・小諸駅に着く。結局、車内では念願の「本菊泉」は空けずじまい。それでも、せめて映画の風情や旅情が感じられる場所で、この酒を飲みたい! そう思い、駅にほど近い小諸城跡「懐古園」に足を運んだ。
園の南端に「水の手展望台」なるスポットがある。その名の如く、眼下に流れるのは千曲川。先ほど渡った千曲川より下流となるが、渓谷となっていて流れはかえってワイルドだ。
あずまやに腰掛け、さっそく栓を切ってまずは一口……。ん~っ。ガツンとくる頑固な辛口だねえ。花とかフルーツとかのチャラチャラした香りはなくて、ホッと一息つける米の旨味が印象的だ。
眼に千曲川の絶景、口に美酒……。寅さんの真似をするわけじゃないけど、思わず声が漏れる――「んまい」。
取材・文=瀬戸信保 イラスト=オギリマサホ