フレンチの巨匠がラーメン店主へ転身
東銀座駅直結の歌舞伎座に向かう華やかな通りから路地に入った裏通りには、日本料理や鰻などの店がひっそりと佇む。かつては築地川が流れていた亀井橋を先に進むと、新富町駅も近い。『銀座 八五』は、その一角にある。のれんをくぐり、店に入った瞬間から心地よい空気が流れる。店主の松村康史さんが穏やかな笑顔で迎えてくれた。
松村さんは、旧京都全日空ホテルの総料理長など、フレンチシェフとして長年勤めてきた巨匠だ。なぜラーメン店主に転身したのか気になるところ。「ホテルで数万のフレンチ料理を提供してきたんですけど、そういう限られたお客様だけじゃなくて、気取らずに誰でもぱっと入れる店をしたかった。お客様に『おいしかったわ』と言っていただいて、喜ぶ顔を直接見たかった。それが料理人として一番の幸せだと思いました」と松村さん。
前職を辞め、ラーメン店を開業しようと思ったところから、さらに3年の月日が流れる。その間、何をしていたかというと、「ラーメンを食べ歩きましたね。ホテルを辞めてから京都で料理関係の顧問などをしながら、京都や東京の有名店に足を運びました。1年目は年間300軒、2~3年目は200軒くらいですね」。なんとラーメン店開業まで約3年かけて準備してきたという。
最初に立ち上げたのは、水道橋『中華そば勝本』。2015年に開店するや鶏をメインに煮干しを合わせた旨味あふれる中華そばで、連日行列のできる人気店となった。2016年に神保町『つけそば神田勝本』、2018年12月に『銀座 八五』を次々と開店。3店舗目でミシュラン1つ星に掲載され、その名を轟かせた。
東京は食の世界でも一流が集まるところ。さらに超一流が集う銀座で店を出したいという思いがあったという。「銀座って日本人の誰もが知っている憧れの地ですから。それに店の作りも味も、今までにないラーメン屋さんを目指したかった」。清潔で上品な店内に、漆塗りのカウンター。心地よく食べていただくため、店づくりにもこだわった。
鴨や鶏、生ハム出汁の旨味あふれるスープを味わう
オープンは11時だが、現在は整理券制で朝から店前に客が並ぶ。早い時は9時台には予定杯数に達して配布終了となる。麺メニューは中華そばに特製などトッピングの追加があるのみ。あとはご飯物や限定も時折提供される。早速、おすすめの一杯をお願いした。
小鍋から注がれるスープは、遠目でも輝いているのがわかる。通常のラーメンのスープなら、醤油や塩などタレを入れて完成させるが、このスープはタレを使っていない、出汁100%のスープだ。鴨や鶏、昆布、椎茸、イタヤ貝、ドライトマト、生姜などさまざまな食材から旨味をとる。そして、味の決め手は生ハムだ。
「生ハムの旨味と塩味で味を調整しているんですよ。提供する日の朝、そのほかの旨味のスープに生ハムを入れて仕上げています」。
出来上がった味玉中華そばは、美しすぎて、食べる前にまじまじと見入ってしまう。早速、松村さんがこだわりぬいたスープからいただく。
旨味たっぷりで塩味のバランスもよく、タレ不使用!? と疑ってしまうほど、素直においしい! 合わせる麺は、浅草開化楼のカリスマ製麺師・不死鳥カラス氏とともに開発した特注麺だ。スープも麺も仕上がるまで半年かかったという。「こんなスープでやりたいとカラスさんに相談すると、いつもいいものを提案してくれます」。スープをブラッシュアップするたびに麺も調整しながら、最適なバランスで仕上げてもらったという。
麺もほかのトッピングもそうだが、一番のポイントはスープを邪魔しない点だ。スープにほかの味が溶け出してしまわないよう、細心の注意を払って仕上げている。だから、最後の一滴までおいしく味わえるわけだ。
「料理には限界がない」。一期一会の気持ちで謙虚にラーメンに打ち込む
中華そばに合わせたいサイドメニューがある。1日数量限定の肉ご飯だ。チャーシューは中華そばと同じローストポーク、その下には新潟県産のこしひかりのご飯。中華そばのチャーシューの上にもペッパーキャビアがかけられていたが、肉ご飯にもパラリ。さらに添えられたレホール(西洋わさび)で、味の変化が楽しめる。
麺も具もスープを邪魔しないのがこだわりだが、味玉も黄身が流れ出ない絶妙な仕上がり。「味玉は半熟でやわらかい状態から、昆布出汁メインのタレで2日間くらい漬けます。そうすると水分が抜けてゼリー状になるんですよ」。なるほど、中華そばのトッピングとして食べてもいいのだが、もちろん肉ご飯にも合う。
中華そばのスープを肉ご飯にかけて、余すところなく味わいたい。一緒に食べると、旨味が増して、さらにおいしい。一滴たりとも残せない、完食だ。
まるでフルコースをいただいたような満足感に浸っていると、冷たい加賀棒茶をどうぞと卓上に。のれんをくぐったときから行き届いた接客の数々に圧倒されてきたが、〆に昭和天皇に献上した高級茶が出てきて思わずうなった。
ミシュラン1つ星店として掲載されていることもあって、お客様は海外の方も多い。「日本の料理のひとつとして、ラーメンを世界に広めることをできたらいいかなと思っています。海外にも出店したいですね。そうすると店名の読みはエイトファイブかな」と松村店主は笑顔を見せた。
『八五』という店名の由来は、ひとつはこの店が8.5坪だったこと。もうひとつは、八の字を富士山に見立て、まだまだ自分たちは五合目だと。「富士山も五合目まではバスで行けるんですが、五合目からは自分の足で登らないといけない。常にここからがスタートと思って、頂上目指して精進しています」。
松村さんに、開業から数年経ったいまは何合目か尋ねてみると、「料理はこれでいいとか、限界がないですね。日々食材もお客様も変わるから、一期一会の気持ちで料理に取り組んでいきたい。まだまだ、これからです」という言葉が返ってきた。
松村店主が創るおいしい一杯と素晴らしいおもてなしにすっかり魅了されてしまった。今日より明日、明日より明後日と毎日最高を目指して、ホスピタリティあふれるラーメンを供し続ける『銀座 八五』は、並んででも通う価値のある店だ。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=大熊美智代