有栖川有栖(ありすがわ ありす)

1959年、大阪市生まれ。1989年『月光ゲーム』でデビュー。2003年『マレー鉄道の謎』で日本推理作家協会賞、2008年『女王国の城』で本格ミステリ大賞、2018年「火村英生」シリーズで吉川英治文庫賞を受賞。『赤い月、廃駅の上に』や『有栖川有栖の鉄道ミステリー旅』等、著書多数。

温又柔(おん ゆうじゅう)

1980年、台湾・台北市生まれ。台湾語、中国語、日本語の飛び交う家庭に育つ。2009年「好去好来歌」ですばる文学賞佳作、2016年『台湾生まれ 日本語育ち』(白水社)で日本エッセイスト・クラブ賞、2020年『魯肉飯(ロバプン)のさえずり』(中央公論新社)で織田作之助賞を受賞。

滝口悠生(たきぐち ゆうしょう)

1982年、東京生まれ。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞しデビュー。2015年『愛と人生』(講談社)で野間文芸新人賞、2016年「死んでいない者」で芥川賞を受賞。著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』(新潮社)、『高架線』『長い一日』(講談社)など。

左上 温又柔さん、中央下 滝口悠生さん、右中央 有栖川有栖さん、その他は鉄道開業150年 交通新聞社 鉄道文芸プロジェクト事務局メンバー
左上 温又柔さん、中央下 滝口悠生さん、右中央 有栖川有栖さん、その他は鉄道開業150年 交通新聞社 鉄道文芸プロジェクト事務局メンバー

最終候補の9作品

1 「魂流し」
2 「心理実験」
3 「善人の駅」
4 「コバルトブルーの車窓」
5 「見附島に日が昇る」
6 「夜行」
7 「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」
8 「駅奇譚:渋谷迷宮篇」
9 「娑婆ちゃん」

さらに議論は深まり、選考は難航

——現時点では、推したい作品が三者三様に異なっています。どのように大賞を選ぶか、また大賞は「該当なし」いう可能性も検討するのか 。これまで多く言及されてきた作品について振り返りながら、議論を進めます。

 

 有栖川さんのおっしゃる通り、「魂流し」は、「琵琶湖の北、今津の浜」という具体的な地名が登場するものの、確かに、そこがそこでしかない、という必然性があまり感じられませんね。確かに、別の山や川が舞台でも成り立ってしまいそう(笑)。

その意味では、滝口さんがご指摘するように、ガラス玉の魂の形状の説明が物足りなかったり、逆に、得体が知れないはずのものをさっさと「オバケ」と書いてしまったりと、よくよく読んだら、結構大事な部分が曖昧に処理されていて、全体的にふわっとした印象を与えてしまうことは否めない。

私は大変面白く読みましたが、この方なら「鉄道文学」を書くことにこだわらずとももっと他の小説を書く筆力があるはずなので、「鉄文」文学賞の大賞として外してもいいかなと思えてきました。

私たち3人が挙げた「駅奇譚:渋谷迷宮篇」も割といい線かと思いますが……。

有栖川 今、なかなか難しい状況になっていると思います。

お話を伺っているとよくわかります。私は「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」をうまい小説だと思いますが、滝口さんがおっしゃったように “当てにきている”という感じもあるんですよね……。

この文学賞の趣旨をよく理解いただいているとも言えますが、そこは引っかかってくるだろうなぁとも思います。

また、魚梁瀬森林鉄道のことを書いているなら、史実と異なるところがあれば、すべて直さないといけない。たとえばこれが「魚梁瀬森林鉄道」ではなく、一文字でも変えていれば架空の鉄道となりますから、史実と異なっていても構いません。ですがそれでは迫力がなくなってしまうでしょうね。

それに、自分で作品を裏切ることになると思います。メモ・記録が嘘だったことになってしまうので、やはり正確な事実でないとだめ。言行不一致になってしまいます。小説に書いてしまったら、逆に間違ったものが優先して残ってしまうかもしれませんし。

滝口 ちなみに、どの部分が史実と異なっているのでしょうか。

有栖川 作中では、昭和初期に「魚梁瀬の森林鉄道がなくなるかもしれん」「魚梁瀬も線路もダムの底に沈む言うてました」とありますが、実際は違います。

戦後復興が進む大都市圏での電力不足を解消するため、昭和28年に水力発電を目的に魚梁瀬ダム建設案が打ち出されましたから、戦前にダムの話が出るというのは間違いですね。

ただ、「昭和中期」や「戦後すぐ」と書くところを、間違って「昭和初期」と書いてしまっただけかもしれません。その場合は部分修正をすれば、作品が壊れるのを防げるかもしれません。

史実を直せばこの小説を救えるという話になったとしても、先ほど滝口さんがおっしゃった作者が都合よく小説全体を動かしているという問題はいかがでしょうか。

 史実の整合性もそうですし、先ほど滝口さんがご指摘なさった妙子さんが記憶障害であるという設定も、作者にとって都合のいい書き方になっている感じがちょっとありますよね。

滝口 僕は今また作品の時間的整合性を考えていたのですが、大丈夫なんじゃないかなという気がしてきました。魚梁瀬森林鉄道の土木建造物が国の重要文化財に指定された2009年に熊吉さんが亡くなったとすると……。それこそ校閲が必要になってきますが。

あと、いまの議論とはまた別の話ですが、今際の際の熊吉さんの回想として描かれているのであれば、ここはそんなに史実に忠実でなくてもよいのではないかと。

有栖川 なるほど、わかります。逆に小説だからもうすでに記憶が曖昧になっているという書き方もできるわけですよね。

滝口 勝手なことを言うと、妙子さんの手元には正確なメモがあるわけですから、回想シーンでの記憶と史実のずれをフォローするきっかけみたいな場面をどこかにつくれば、整合性というか作品としての締め方は一応できるかと。

有栖川 確かに締まりますし、ある意味、作品がまた半歩先に進むことができますね。

滝口 僕は普段から、自分が読むときも書くときも、書かれている言葉はその作中の誰かが何らかの形で発した、その人の記憶や信念に基づいて発せられたものとして捉えています。

ですから、たとえばここで書かれたものがビシッと正確だったとして、その正確ゆえの不自然さも、やはり気になるんです。

だから僕が書くとしてももっと曖昧にします。昔のことですし、人の記憶なんかわからなくなる方が自然だと思うので。

有栖川 いや、そうですね! 確かにおっしゃる通りで、推理小説の登場人物くらいですよ、何月何日何時何分まで覚えているのは(笑)。

私が大賞に推したけれども取り下げようとした 「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」を、滝口さんが擁護してくれていますね!

 正確さゆえの不自然さ、という滝口さんのご指摘は自分でも小説を書く立場として聞いていても非常に重要だなと思いました。とはいえ、有栖川さんが最初におっしゃられていたように、史実が不正確のせいで物語の信憑性が疑われるのは、この小説としてはもったいない。

というのも、この小説のテーマは記憶と記録なのかなと思うんです。考えてみれば、確かに存在していたものや確かにあったはずの出来事も、それを目撃したり経験した人がそのことを忘れたり、いなくなったりすれば、なかったも同然になってしまう。記憶に頼れないからこそ、記録を執拗にすることが非常に大切だということを、記憶障害の妙子さんのノートと熊吉さんとの関係に託して描こうとした小説なのだなって。

その分、こうして話し合えば話し合うほど、記憶と記録を巡るテーマの割には作者が、史実を正確に調査していない事実がだんだんわかってきて、矛盾しているなあと……。

滝口 調査をしていないかどうかはわからないですよ。「昭和初期」など言葉選びが適当ではないというだけで、実はバシッと調べて書いた可能性もあると思います。いい加減にこれだけのものを書くのは結構大変だと思います。

 いえ、作者が全く調査せずにこれを書いたと言いたかったのではなく、調べ方の綿密さが、こういう小説を書くうえでやや甘かったのではないかと。

有栖川 いや、調べなかったら、これだけのものは書けないでしょうね。

滝口さんがおっしゃるように、「昭和初期」とぽんと書いて、後で直そうと思って直し忘れたなら単なるうっかりミスなので、調べ方が甘いとか、姿勢の問題ではなく「あぁそれだけなのね」で終わる話です。だから、直してあげればいいと思います。

 なるほどなるほど。確かに、ちょっとずつの、単なるうっかりミスはあっても、校閲や編集の段階でしっかり修正すればいいのだし、そうする価値がある作品ですよね。

いったん振り出しに戻って考えると、物語としてはやっぱりすごく魅力的ですから。失われて今はもう存在しない場所が、ふたりの記憶の中に残っていることとか。だから、この内容が史実かファンタジーかということをさておいて考えると、この小説には魅力があると思います。

有栖川 同感です。熊吉さんと妙子さんがふたりで蛍を見るシーンは、私、素直にいいものを読んでいると感じましたし、なかなか書けないレベルです。

滝口 そうですね。「……どうやろ。私の記憶は、蛍の光の点滅みたいなもんで、光っても消えていく一方やし」と言う妙子さんに、「でも、僕が覚えてます」と熊吉さんが答えるシーン。とてもよかったです。

蛍の光は光って消えていくのではなく、消えていったものが光っていく。妙子さんの9秒の記憶も消えていくんじゃなくて、いつも新しく光っている。

有栖川 好きな女性に対して一生懸命しゃべっているというのは、決してやりすぎではない。感情移入ができましたね。

滝口 そうですね。ここは一生に一度ともいえるセリフでしょうね。一緒に蛍を見に行こうと覚悟を決めて誘ったと思いますので、これくらい言ってもいいと思います。ここだけ見たらクサいけど、作品を読む流れのなかではクサくたっていい、と思える。

 しかも冒頭で「妙子と過ごした短い一夜が、ありありと思い出された」と記されていますから、本当にもう一世一代のこととして発したセリフなのではないでしょうか。

滝口 一方で「駅奇譚:渋谷迷宮篇」もよいところまで来ていると思いますが……。

有栖川 先ほど温さんが「駅奇譚:渋谷迷宮篇」を“思わせぶり”とおっしゃっておられましたが、その通りだと思います。

逆に言うと、「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」はどこで失敗するかわからない振り付けの難しいダンスみたいなところがあって「いまリアリティなくなった」「いま上手く書きすぎた」「ちょっとメロドラマすぎる」といった、いろいろ失敗しそうな危ういポイントがあるなかで踊ってくれたわけです。

でも、「駅奇譚:渋谷迷宮篇」は、この原稿枚数なら手癖で押し切れます。しかもオチがない。これは書くのが甘いというか、ちょっと楽だなと思いますね。

ダンスの振り付けを失敗しても誰も何も言わないし、読んだ後の充実感が弱い。「なるほどね」からあまり遠くへは行かないかも。

滝口 そうなんですよね。

 今も未完成である渋谷駅を描き、刻々と刻んでいるという意味では悪くはないですが、やはり社会批評の部分と、その物語の軸としての部分がどうしてもいまひとつ弱いから、「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」を抑えて「駅奇譚:渋谷迷宮篇」を大賞にするというのは歯がゆい気持ちになります。

滝口 「駅奇譚:渋谷迷宮篇」は、渋谷駅を知っている人と知らない人で、楽しみ方の差も大きいと思うんですよね。他の駅でもやってみたら、それはそれでいいかもしれない。

有栖川 ただ、大きなターミナル駅ならどの駅でも同じようなものになってしまうかもしれない。

滝口 そうなんですよね。渋谷であることの意味が少し弱い。その点が、日本全国のいろんな地域の人に読まれたときにどうかと考えると……そこは「鉄文」の名を冠した賞としてどうかというときに、結構、決定的な感じがしますね。

有栖川 先ほど手癖で押し切れると申しましたが、では「駅奇譚:渋谷迷宮篇」は陳腐なのかというと、全く陳腐ではありません。

大賞の栄冠はどの作品に……⁉

 史実を確認して改稿するというなら、私はやはり「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」に可能性を感じます。

滝口さんのお話を伺って、「夜行」も、この著者にとってこの一編をこの文体で書かなければならなかった切迫感と必然性を感じて、自分の読みが甘かったなと反省していたのですが、私としてはやはり「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」の方に賭けたいと思います。今の段階でも。

滝口 僕も今までの議論を踏まえて選ぶなら「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」かなと思います。やはりこの作品について一番多く言葉が交わされたと思うので。

それだけ読んだ人がいろんなことを語りたくなる・話したくなる作品だと思います。

たとえば今日議論に出た疑問や意見を、交通新聞社さんから作者の方にお伝えいただいて、原稿はもちろん変えなくてもいいですし、どう直してもいいと思います。そういう風にしても僕はよいと思います。

有栖川 私も一番前に出る作品は、「駅奇譚:渋谷迷宮篇」ではなく、「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」だと思います。

文章的にも少し危なっかしいところはありますが、細かなところは校閲チエックが入れば直りますし、史実と異なる箇所は指摘して、「勘違いしていました」ということであれば直してもらいましょうか。

「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」は、修正すればきれいになるでしょうし、場面としても、作品としても、やはり捨てがたいものがあります。

この作品は「鉄文」文学賞の大賞に似合いますね。読めば「森林鉄道に乗った気分になった」「読んだ甲斐があった」と言う人もいらっしゃるでしょう。

「夜行」は、ここが気に入らないみたいなことを先ほど申し上げましたが、逆に今すごく気になっています。どうして語り手がこんな言葉を内面化しているのかと。

逆に理由があればすごく納得がいく。ひとりで夜に貨物列車を運転しているから、それがこんな言葉になってあふれてきたということであれば、すごく納得がいきます。

主人公のセリフがぎこちなく、芝居がかっていませんかと思うけれども、でも、それが彼の言葉だということを噛みしめると逆におもしろい。もしかすると私は、「こういうものを書いてほしい」というのを持ってしまっていたかもしれません。

書くべきことに向かっていった、そんな小説だと思います。

滝口 この堅くていかにもなスタイルが、主人公が自分の言葉を文章の形で表そうとしたとき唯一選べたスタイルだったと思いますし、その切実さも感じます。

ただ、厳しく見れば、作者は小説を書くとき、既存のいかにも文学的な言葉というものに留めるのではなく、もう一つ二つ主人公から言葉を引き出して、借り物でない、主人公自身の言葉であると感じらえる言葉を聞き出し、導き出してあげることが必要だったかなと。

有栖川 「夜行」も、この最終選考会で多くの言葉が語られていますね。

 「夜行」については、今、有栖川さんもおっしゃったように私もまた、「こういうものを書いてほしい」という自分の願望が先走ってたのでしょう。だからこそ、滝口さんのおかげで、この作品の読み方の可能性を知ることができてすごくよかったです。

ただ、滝口さんの解釈がなければ私はやっぱり、「夜行」という作品それ自体を評価するのは難しかったと思うので、大賞は違うかな?とも。

滝口 なるほど。

有栖川 同感です。改稿が必要ですが、やはり「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」が大賞にふさわしいでしょうね。作品に力があります。

 先ほど、“当てに来ている”という表現がありましたが、それは必ずしも悪いことではなくて、むしろ、その器用さを、今後も活かしてほしいなと思うんですよね。ここで応援の意味も込めて大賞にしたら、より面白いものを今後もどんどん書いてくださるはずだという期待を込めて。

有栖川 そうですね。この少ない原稿枚数だから、あのようにまとめたのかもしれないし、“当てにきている”といわれるのは心外かもしれませんね。

滝口 先ほども申しましたが、今日話していて、これだけ気になる・話題になるということはいい作品だと思います。いい作品というのは、読んだ人の言葉を活性化すると思います。それについて何か言いたくなる。この最終選考会で、一番多くの言葉がこの作品に費やされたというのが、なによりの証拠になるのではないでしょうか。

僕も最初は、割とネガティブでバツをつけていましたが、今日お話ししながら、よいところがたくさん見つかって、グイグイと評価が上昇してきました。どんどんいい作品に思えてきましたので、ぜひ大賞にしたいと思います。せっかくなので、もっとたくさん書いてほしいですね!

 ええ、ぜひ‼

前述されなかった作品の講評も

——まだ話題に上がっていない作品について、講評をお願いします。

 

有栖川 「心理実験」は、お父さんが心理学の教授で、旅はその心理実験だったというオチがいかがなものかと。

「善人の駅」は、神社の入り口になっている秘境駅が登場し、その駅が雑誌とラジオに紹介されて日本中に知れ渡ることになるという……。いろいろ展開があってどうなっていくのかなと思いながら読み進めたら、村は山津波でなくなったという締めくくり。

「だからなんなのか」というまとめ方が弱くて、いま言ったような事象を作者が楽しく書いただけで満足して終わっているように感じました。作品になるには、この先が必要です。

「見附島に日が昇る」は面白いかなと思いましたが……美大生のカオルさんが描いた見附島の絵を、亡くなったお父さんが買ってくれていたというのが真相ですが、お父さんは自分が勤めていた立ち食い蕎麦店を辞めるとき、なぜその大事な絵を持って帰らなかったのでしょうか。そんな大事な絵なら自分の部屋に飾っておくはずではないかと引っかかりました。

「娑婆ちゃん」は、「クレェおくれ」というセリフから始まる、大らかで孫思いのおばあちゃんのお話。もしかしたらこのおばあちゃんには実在のモデルがいらっしゃるのかもしれないですね。お話は面白くて和んだのですが、作品としては弱いなと感じました。

 

 「心理実験」は、タイトルがオチですよね。面白そうな設定ではあるのですが、タイトルでバラしてるのはいかがなものかと(笑)。あと、文章が悪い意味でちょっとたどたどしすぎたかな。

「善人の駅」は、面白いアイディアだなと思いました。ただ、最後まで読んでみても物語の内容がアイディアの段階を超えていないように思えました。また、作中で結構長い時間が流れるのですが、世代を跨っていろんな人たちが重ねてきた時間の重みがあまり伝わって来ず、ちょっと物足りなかったです。

「見附島に日が昇る」は、立ち食い蕎麦店で働いている哲夫さんと、店を訪れたカオルさんという別の人のストーリーが交わる必要性が感じられず、二つの物語を無理矢理一緒にしたような感じがしました。いっそ、哲夫さんは哲夫さん、カオルさんはカオルさんと、別々の物語として二編、しっかり書いてみたら面白いかも。

「娑婆ちゃん」は、候補作の中でも最も魅惑的なタイトルだと思いました。その分、期待もしましたが、良くも悪くも想像通りの内容だったので、すごく惜しい。おばあちゃんの強烈なキャラクターに頼りすぎてる感じも。おばあちゃん、ものすごく魅力的ではあるんですが。

 

滝口 「心理実験」は、有栖川さん、温さんと同じで、オチがタイトルというのは物足りないですね。あと文章的な拙さも目立ったかな。

また、この主人公は滋賀から京都までヒッチハイクをし、京都から岡山まで新幹線で行くのですが、せっかく小説なんだから、もっと大きくダイナミックな移動を書いてもよかったのではと思います。小さな移動でもいいんだけど、それならそれでもっと徹底的に細かいところに分け入っていくような場面が欲しかった。

「善人の駅」は、説話的スタイルをとっていて雰囲気は保たれているのですが、良くも悪くも安定していて驚きがない。鉄道というよりも、交通の功罪みたいなことを書いていたように思いますが、どちらかというと神社や信仰が話の中心だったかなと思いますし、それを書くにしても中途半端だったかなと。もっと大胆なことをしてほしい。

「見附島に日が昇る」は、おふたりがおっしゃった通りで、構成が生きていない。もう少しカオルさんとお父さんのエピソードが入ってこないと、前半の立ち食い蕎麦店のくだりがなんだかよくわからないですね。

部分部分はおもしろく読めるから、うまい文章を書ける人なんだとは思うけど、だからこそ、なんとなくいい話ではなく、変な話とか、思い切ったことを試みてほしいと思います。

「娑婆ちゃん」は、おばあちゃんのキャラクターが面白くて、最後まで湿っぽくならない。おばあちゃんは亡くなってしまうのですが、最後までカラッとしてるのはいいと思いました。

でも、構成や文章の拙いところが目立って、その拙さゆえに、そこにいる人物や旅のエピソードの魅力が現れ切れていない。もっと面白い出来事があったはずなのに、それが十分に出し切れていないというところが、マイナスポイントになりました。でも、こういう明るさとかドライさは、得ようと思っても得られないし、救いになる。だから大事にしてほしいです。

 

有栖川 それぞれの作品について語るとき、いいところを挙げていくとどうしても時間がかかってしまうので、引っかかるポイントについてお話ししてしまいましたが、9作はいずれも面白く、思っていた以上の出来栄えでした。

9作とも魅力的で、楽しませていただきました。

 

 

長きにわたる議論の結果、「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」が大賞に選ばれました。

なお、大賞と『旅の手帖』編集長賞をダブル受賞されたやすざわこうじさんの「魚梁瀬の森に日は沈みぬ」は、改稿のうえ『旅の手帖1月号』(12月9日発売)に全文掲載しています。

また『散歩の達人』編集長賞を受賞されたスズキ与太郎さんの「駅奇譚:渋谷迷宮篇」は『散歩の達人1月号』(12月21日発売予定)にて、そして『鉄道ダイヤ情報』編集長賞を受賞された水叉直さんの「夜行」は、『鉄道ダイヤ情報1月号』(12月15日発売)にて、全文掲載しています。

 

※選考は、作者名を伏せて実施しました。

構成=上野山美佳(交通新聞社 鉄道文芸プロジェクト事務局)

385作の応募があった「鉄文」文学賞。一次・二次と厳正なる選考が行われ、2022年9月29日、大賞を決める最終選考会がオンラインで開催された。最終選考委員は、小説家の有栖川有栖さん、温又柔さん、滝口悠生さん。創作ジャンルの異なる3名はいかにして大賞作品を選んだのか——。2時間強に及んだ最終選考会特別レポートの前編。