そばにワサビを添える謎に迫る

ソバとワサビ、どちらも山間部の作物だから郷土の味だったのでは」と仮説を立て奥多摩へ向かった。が、したり顔の私の仮説は、取材1日目で打ち砕かれた。『奥多摩水と緑のふれあい館』職員の神山さんいわく「地元のお年寄りに尋ねても、その組み合わせは食べなかったと言うんです」。そんなあ!

『奥多摩水と緑のふれあい館』文化財担当職員・神山正明さん。館内は奥多摩町の歴史・民俗資料展示も。
『奥多摩水と緑のふれあい館』文化財担当職員・神山正明さん。館内は奥多摩町の歴史・民俗資料展示も。

ソバが奥多摩でも古くから栽培されたのは事実だ。稲作ができない急傾斜地でも収穫できるからだ。ワサビも江戸時代にはすでに大消費地の江戸市中へとさかんに出荷された記録がある。平成初期までは、全国でも有数の産地だった。

しかし、奥多摩のワサビ栽培は農家が険しい山間の沢で育てた産物で、地元では身近な食べ物ではなかったらしい。

実際、長年ワサビ栽培に取り組む鈴木実さんも「根わさびは高値で取り引きされる換金作物だったので地元は素通りでした」と言う。

そばに至っても、鈴木さんが子供の頃に食べたのはそば粉を熱湯で練ったそばがきだったそう。手間のかかる手打ちそばは、大みそかの年越しそばなどハレの食だった。……雲行きが怪しくなってきたので、江戸の食事情を調べてみた。

家康との出会いがワサビの運命を変えた

江戸でのそば切り(麺としてのそば)は慶長19年(1614)の文献が初出だ。それまで、粘り気がないそば粉はそばがきなどにして食べていた。その後、小麦粉を混ぜて細切りしやすくする技術、いわゆる二八そばが編み出され、江戸っ子の間で大流行する。なぜか。

まずは外食文化の発達だ。江戸は築城や町づくりなどのために全国から職人や商人、武士が集められたので男が圧倒的に多かった。そばも天ぷらや握り寿司、うなぎと並ぶ江戸四大名物料理の1つとして屋台で商われ、安い・早い・旨いと大人気。また、白米が主食で栄養が偏りがちな江戸で流行った脚気防止に、そばのビタミンB1が貢献した。でも、当時の浮世絵に描かれた屋台は丼入りの汁そばのみで、残念ながらワサビは見つからなかった。

ワサビの歴史はというと、古代に天然ワサビが租税として供出されたり、薬用やワサビ酢で食べるといった記録が各地にある。

やがて、江戸初期に静岡県の安倍川上流で栽培が始まる。これがワサビの運命を大きく変えた。安倍川河口域に徳川家康の駿府城があったのだ。家康は味とともに葉が葵御紋に似て「山葵」と漢字で書かれるワサビを喜んだという。

伊豆半島の幕府直轄地でも栽培が始まると、江戸後期には舟でワサビが大量に江戸に運ばれた。古くは特権階級のごちそうだったワサビはこうして庶民にも浸透したのだ。

そばにワサビは臭み消しの意図もあった?

折しも都市が成熟し、屋台のほか店を構えるそば屋が爆発的に増えた。万延元年(1860)の調査では江戸府内には3763軒ものそば店が。客が席に着いて落ち着けるなら、店もワサビを添える余裕ができる。これがそばとワサビの絆を深めたのではないだろうか。

そばにワサビが良いという文献は17世紀後半にはあるが、当時のつゆは味噌味だったらしい。それが江戸後期に、関東で濃口醤油やみりんが製造、良質なかつお節も流通されて現在のつゆに近いものが普及した。醤油との相性は抜群だった。

「ワサビはかつお節の臭み消し」

という一文も見つけた。江戸で大流行した握り寿司で、魚の臭み消しにワサビが大量消費されたのと同じ理屈だ。さらには食欲増進作用、何より食中毒防止の抗菌作用も外食文化には重要だっただろう。

では、冒頭に書いた、そばとワサビの食べ方は本当に最適なのか。

前出の鈴木さんによれば「ワサビは肉や大トロなど脂が多い食べ物にも合うが、辛味自体は弱くなる」と言う。その点、そばは淡白なのでワサビが引き立つのは確かだ。ただ、「つゆとワサビの相性もいいんです。根わさびを粗めにすってつゆに入れる。そばを付けて食べるうちにつゆの風味が濃くなっていく。そこに温かいそば湯を注ぐと、辛味と香り、コクが出ておいしくなるんです」という楽しみ方もあるようだ。

臭み消しに利用されていたであろうことを考えれば、むしろそちらが伝統的な食べ方と言えるが、どちらが正解ということはない。歴史を思い起こしながら、両方の食べ方を楽しんでみてはいかがだろう。

鈴木わさび農園

鈴木わさび農園の鈴木実さんはワサビ栽培ひと筋50年ほど。ワサビ田作りは、水流や水温が年中安定しているか候補の沢を数年観察、階段状に30~100mもの階段状に石を積んで造成する。山奥はモノレールと呼ばれる車両で。すりおろす部分は根わさびと呼ぶ。

鈴木実さん。
鈴木実さん。
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奥多摩のワサビ栽培が盛んだった昭和40~50年代に、鈴木実さんは父に教わりながら栽培を始め、奥多摩で早くからわさび漬け製造も始めた。鈴木わさび農園の根わさびやわさび漬けは、御岳駅前で週末に10時頃から販売する。

『そば処 和樂』[小作]

ワサビ求めてわざわざバイクで仕入れ

遠方から訪れる客も多い。
遠方から訪れる客も多い。

長年修業を積んだご主人・黒田さんが小作に開店したのも奥多摩の『千島わさび園』の根ワサビを買いに通えるギリギリの距離だから。そば粉は北海道十勝産で「そば粉10に小麦粉2とそば粉を多めに打ちます」と黒田さん。厳選された材料で仕込むめんつゆとそば、おろしたてワサビの3つが調和する味わいが見事だ。

・JR青梅線小作駅から徒歩20分。11:00~14:30LO・17:00~19:30LO、水休。青梅市新町8-20-9 ☎0428-33-0141

黒田英雄・若枝夫妻。
黒田英雄・若枝夫妻。
せいろそば900円(写真は大盛1200円)。小さめのワサビを客みずから鮫おろしでする。「最初はそばだけ、次にそばにワサビをのせて味わって」と英雄さん。
せいろそば900円(写真は大盛1200円)。小さめのワサビを客みずから鮫おろしでする。「最初はそばだけ、次にそばにワサビをのせて味わって」と英雄さん。

千鳥わさび園[川井]

ワサビ作り名人の父の遺志を姉妹で継ぐ

自家製根わさび販売のほか、茎と根わさび入りの「極上本わさび漬」600円や「極上のりわさび」650円、葉入りこんにゃく(期間限定)など、加工品も手作り。「父はざるそばにはネギを使わずワサビをのせて食べるのが好きでした」と社長の内藤いずみさん。奥多摩のワサビ生産者はおのおの販売先を持つが、当店は数軒のそば店が御用達だ。

・JR青梅線川井駅から徒歩10分。9:30~17:00、月休(祝の場合は営業)。奥多摩町丹三郎8-2 ☎0428-85-1872

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2022年10月開催の「奥多摩ふれあいまつり」の一角で農産物品評会が行なわれた。ワサビも約30名の地元生産者が出品していた。

取材・文=眞鍋じゅんこ 撮影=鴇田康則
『散歩の達人』2022年12月号より