転職よりは自分でできるんじゃないかと思ったんです

「素粒社」代表・北野太一さん。
「素粒社」代表・北野太一さん。

北野太一さんが出版社「素粒社」を立ち上げたのは2020年。それまで勤めていたのは俳句関連の小さな版元で、一般にはあまり流通していない本をつくっていた。もうすこし幅を広げたいと転職を考える。「当時は、一人で出版社を立ち上げた先例や情報もあったので、転職よりは自分でできるんじゃないかと思ったんです。営業も編集もやって、業界のだいたいの仕組みも分かっていたので」。

まず手掛けたのは『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』(小津夜景・著)。フランス在住の俳人が、漢詩や日本の詩を日々の生活に寄せて味わうエッセイだ。「前職でつながりがあった方で句集は出していたんですが、ブログを読むかぎり文章も書ける人だと思って、お願いしました」。クラウドファンディングで多くの支援が集まり出版。現在4刷になっている。

北野さんは一人で編集、営業、経理、発送などをこなす、いわゆる「ひとり出版社」だ。「でもあまり、ひとり出版社であることを打ち出しているつもりはないんです。読者にとっては、著者が好きとか、装丁がいいとか、買う動機はそれくらいが理想的だと思う」。

素粒社の本は装丁がアグレッシブで、書店でも目につく。「まだあまり知られていない出版社で、書店さんとのつながりもまだまだなんですけど、たとえ大きな書店に置いてあっても埋もれることなく目立つように、意識はしています。ちゃんと企画して、デザインや帯文にも力を入れて、売れる本をつくる。名の通った出版社とも渡り合いたい。野心的であることは、大事にしています」。

藤沢で暮らしながら一冊一冊本をつくる

素粒社は著者のデビュー作が多い。俳人である上田信治さんの初エッセイ本。
素粒社は著者のデビュー作が多い。俳人である上田信治さんの初エッセイ本。

創業した小金井のオフィスは5年契約だったため移転先を探し、事務所と住まいは藤沢に決めた。「子供が小学生なので、このタイミングしかないと思ったんです。藤沢は海が近くて、環境的にも楽しそうなのと、駅にジュンク堂や有隣堂があることも決め手でした。自分が大学生の頃、本屋に行くことで救われたし豊かな経験だったので、近くに大きな本屋があるのは、子供にもいいんじゃないかと思って」。

住み始めてみると、都会と田舎の混ざり具合がちょうどいいと感じる。「昨年の夏に、新林公園でホタルを見た体験は鮮烈でした。そこから境川をはさんで向こう岸にある秩父宮記念体育館には、屋外に卓球台があって、好きな場所です」。

創業して6年。つくりたい本の構想は尽きない。「今は文芸ばかりなので、文章の力が生きるような違うジャンルの本をつくりたいです。たとえば自然科学の読みものとか。いつか、社名でもある素粒子の本が出せたら最高です」。

「素粒社」の本

小津夜景『漢詩の手帖 書庫に水鳥がいなかった日のこと』(左)

『いつかたこぶねになる日』に続く、漢詩翻訳エッセイ。杜甫、李白から菅原道真、嵯峨天皇、明治の狂詩まで、漢詩をひもとき、日常のなかにあざやかに映し出す。

中村季節『大工日記』(右)

36歳女性が、家業である大工の仕事に飛びこんだ日々。疾走感しかない文体で描かれる光景が目の前に現れ、迫ってくる。ZINE版から大幅改稿。240ページ、唯一無二の熱。

住所:神奈川県藤沢市柄沢471-25

取材・文=屋敷直子 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2026年6月号より