京急蒲田駅から夫婦橋の親柱を見に行く
京急蒲田駅に着くと、まずは駅構内の商業施設「ウィングキッチン京急蒲田」にある大田区観光情報センターに立ち寄った。観光情報センターでは区の観光マップやパンフレットなどが配布されているほか、大田区に暮らしていた版画絵師・川瀬巴水(はすい)のグッズなども販売されていて、大田区の観光や文化にかんする情報を手軽に入手できる。さっそくマップやパンフレットをもらえるだけもらい、取材に必要ないのに買ってしまった川瀬巴水のクリアファイルに詰め込んだ。
観光情報センターでもらった「蒲田今昔マップ・100年前の蒲田まちあるき案内」にはオモテ面に現在の蒲田の地図、ウラ面に100年前の大正時代に存在していた蒲田の名所や旧跡の解説が載っていて、とても参考になる。早速マップに書かれていた夫婦橋の親柱が気になり、設置されている夫婦橋親水公園も駅から近いようだったので最初に立ち寄ることにした。
夫婦橋親水公園のある場所に着くと、何やら工事用の仮囲いが設置されていた。呑川の防潮堤耐震補強工事のため親水公園が資材置き場となっているらしく、入ることができないようだ。残念だが夫婦橋の親柱を見るのは諦めて、呑川の上流の方へ移動することにした。
夫婦橋の上流にはかつて呑川と六郷用水とを分つ堰(せき)があり、呑川と用水に2つの橋がかかっていたことから「夫婦橋」と呼ばれるようになったという。現在親水公園になっている場所には、呑川河口の海苔採取業者たちの荷揚などに使う共同荷揚場があったそうだ。以前『大森 海苔のふるさと館』で大森・羽田で行われた海苔の養殖について学んだが、呑川を少し上った蒲田にも海苔にまつわる土地の記憶を伝える場所があった。
明治~大正期に存在した「蒲田菖蒲園」の記憶
再び第一京浜から駅へ戻り、京急蒲田の西口ロータリーを抜けて「京急蒲田商店街あすと」のアーケードを進む。以前JR蒲田駅西口の方にあるサンライズ蒲田、サンロード蒲田を歩いた時にも思ったのだけど、アーケードのある商店街を見るとなんだか大阪や関西の街を歩いているような気分になってしまう。もちろん都内にもアーケード商店街はあるが、数では大阪を筆頭に西日本に多く、東日本は少ない傾向があるようだ。Googleストリートでビューランダムに表示された場所が地図上のどこかを推理するゲーム「Geoguesser」でもし「京急蒲田商店街あすと」が表示されたら、一瞬大阪府内の街を予想してしまう気がする。
「あすと」を途中で右に曲がると、正面に呑川が見える。呑川に沿って西に進み、東邦医大通りを渡り、再び歩くと右手に見えてくるのが菖蒲(あやめ)橋だ。
「菖蒲橋」の名は昔この地にあった菖蒲園に由来する。明治36年(1903)、横浜植木株式会社によって「蒲田菖蒲園」が開園された。当時の様子について『大田区の文化財 第19集(写真で見る郷土のうつりかわり 風景編)』(1983)にはこう書かれている。
「現蒲田小学校あたり広さ約三万三〇〇〇平方メートルの広大な遊園地だった。
園内の池には三百余種の菖蒲を植え、そのほか牡丹花壇や藤棚を作り、桜やつつじなども植えられた。入園料は大人五銭、小人三銭で、菖蒲の季節はもとより、四季さまざまに咲く花を見る人が集まり、大正期にはキネマの女優たちによる余興などもあって繁盛したという」
蒲田菖蒲園を開園した横浜植木株式会社の『横浜植木株式会社100年史』(1993)には、
「その評判の高さは、後に、土地の有志が蒲田駅開設を国鉄当局に陳情する際、蒲田菖蒲園を訪れる人出の多さを理由の一つとして挙げたことが物語っている」
とあり、蒲田駅が開業した後は「園内には茶店、すし屋、おでん屋などが出店するまでになった」(『横浜植木株式会社100年史』)と書かれているので、にぎわいがさらににぎわいを呼ぶような状況だったのだろう。ほかにも「葛飾の堀切菖蒲園に並ぶほど有名」(『大田区の歴史 東京ふるさと文庫8』〈1978〉p.101)と書かれており、東京近郊の名所として広く知られていたことがわかる。『横浜植木株式会社100年史』によると蒲田菖蒲園はもともと海外に輸出するための花菖蒲の栽培を目的としていたが、主な輸出先であるアメリカ市場に花菖蒲に変わる欧州の各種花物の球根類が出回りはじめたことで輸出不振となり、大正10年(1921)3月に閉園したとある。
もし現在まで続いていたら、東京で菖蒲園と言えば堀切か蒲田と言われていたのだろう。菖蒲橋から蒲田小学校の方を眺めながら、かつてそこに咲いていた色とりどりの花菖蒲を想像する。
逆川の跡をたどり、松竹キネマ蒲田撮影所跡へ
呑川沿いにスマホをいじりながら道の端に佇む人たちがいる。自転車の荷台に黒く大きなカバンを置いているので、きっとフードデリバリーの配達員の人たちが待機しているのだろう。その配達員の人たちがいる菖蒲橋の少し下流に、古い橋の親柱のモニュメントが設置されていた。
解説板「蒲田橋親柱と六郷用水支流・旧逆川」によるとこれは蒲田橋の親柱で、蒲田橋はここから南西約50m先の多摩堤通りが逆川(さかさがわ)を渡るところに架かっていた。逆川はこのモニュメントのあるあたりで呑川に合流していたが、下水道整備によって埋め立てられ、2014年に川の流れをイメージしたコミュニティ道路として新たに整備されたそうだ。
旧蒲田橋親柱のモニュメントの正面の道を少し歩くと、「ニッセイアロマスクエア」や『大田区民ホール・アプリコ』の方向へ「さかさ川通り」が続いている。現在の道はくねくねと曲線を描いているが、地図を見る限りかつての逆川がこのように曲がっていたわけではなさそうなので、かつての流路をわかりやすく視覚化するための演出なのだろう。
さかさ川通りを進むと正面に見えてくる大きなビルが「ニッセイアロマスクエア」で、隣接する『大田区民ホール・アプリコ』と合わせてアロマスクエア街区と呼ばれている。もともとこの地にあった高砂香料株式会社の工場跡地の再開発で、戦前は松竹キネマ蒲田撮影所があった場所でもある。
観光情報センターで入手した「蒲田今昔マップ・100年前の蒲田まちあるき案内」にはこのアロマスクエアに松竹橋の親柱のレプリカが設置されていると書かれている。どこにあるのかわからず地図を片手にうろうろしていたら、警備員さんが場所を教えてくれた。街区の植え込みの中にひっそりとあり、存在を知らなければ素通りしてしまいそうだ。
親柱の脇に設置された「蒲田撮影所と松竹橋」と題する説明板には「ここに置かれた橋は、当時、撮影所の正門前を流れていた逆川(さかさがわ)に架かっていた「松竹橋」を模したもので、撮影所が当地を去った五十年後の1986年(昭和六一年)に公開された映画「キネマの天地」の撮影に使われました」と書かれている。
こちらはレプリカだが、行方がわからなくなっていた親柱の実物は『アプリコ』の中に設置されている。親柱の傍にある説明板にその経緯が書かれており「鎌倉在住の方より、戦中戦後の混乱を経て、もはや現存しないものとされていた親柱の寄贈の申し出があり、蒲田東口地区まちづくり協議会が懸橋となって、七十数年ぶりに、当地への里帰りが実現」したという。
「蛸の手」のように分水された六郷用水
アロマスクエアを出て南に歩き、環八を超えると蒲田本町一丁目団地が見えてくる。団地脇の道をそのまま進むと都立蒲田高校と区立新宿小学校の間にある小さな公園に「六郷用水の跡」と書かれた標識が立っている。公園の敷地内にかつてこの辺りを流れていた「六郷用水新宿糀谷村用水跡」の一部が残されて(再現されて?)いる。
公園に設置された案内板には「土地の人々に愛された用水には鮒やめだかが泳ぎ、ホタルが飛びかっていた」と書かれていて、当時の蒲田本町周辺がいかにのどかな農村だったかを物語っている。
新宿糀谷村用水跡から京浜東北線・上野東京ラインの線路を渡り、区立志茂田小学校・志茂田中学校に沿ってまっすぐ歩き、道塚本通りを北に進む。途中で右に折れて京浜東北線の車庫の北側の道を東に進むと、六郷用水の案内板があり、ここに「蛸の手」があったと書かれている。「蛸の手」とは何か。
多摩郡和泉村(現在の狛江市元和泉)の多摩川から取水された六郷用水は、矢口村(現在の千鳥3丁目)の南北引き分けを境に、池上・大森方面の北堀と、蒲田・六郷方面の南堀へと分流されていた。その南堀は現在の京浜東北線の車庫付近で糀谷、羽田、六郷方面へと分水され、ぞれぞれの村の田を潤していた。
南堀がさまざまな方向へと別れていく様子がまるで蛸の手足のようだったことからその場所を「蛸の手」と呼ぶようになったという。奇妙なネーミングは、各村へと分水される用水を表すものだった。
「蛸の手」から再び京浜東北線の線路を渡り、用水の跡と思われる細い道を歩きながら、雑色を目指す。
しばらくすると道の両側に個人商店が並ぶ通りに出た。ここが雑色商店街通りらしい。三間通り(仲六のバス通り)を境にアーケード商店街となっていて、その様子は私のよく知る葛飾区立石の立石駅通り商店街に少し似ている。
JR蒲田駅周辺でも感じた「東っぽさ」だけれど、大田区の低地には町工場が多かったり、近くに川が流れていることもあり、街並みや雰囲気が東京東部の下町と似ているように感じるのかもしれない。
雑色から六郷神社へ、新旧の六郷橋を訪ねて
そのまま雑色駅を過ぎ、第一京浜を渡ると、水門通り商店街が続く。途中で左に道曲がり、道を南西方面へとまっすぐ進むと、やがて六郷神社が見えてくる。
六郷一円の総鎮守というだけあって、神門や社殿も立派で、境内も広い。毎年1月7日にはこども流鏑馬(やぶさめ)も行われているそうだ。この六郷神社の境内に旧六郷橋の親柱が保存されている。
六郷と対岸の川崎とを結ぶ六郷橋だが、その歴史はなかなか多難だ。案内板によると、慶長5年(1600)に徳川家康が六郷大橋を架設したが貞享5年(1688)の洪水で流失。それ以来186年もの長い間、六郷と川崎間の渡河には渡し船が使われた。
六郷神社を西側の鳥居から出ると、目の前を第一京浜が通っている。実はその手前にもう一つ細い道が多摩川の方へと続いていて、それがかつての東海道だ。
工場や住宅が混在する様子のせいだろうか、旧東海道から多摩川までの街並みも葛飾区や足立区の荒川沿いによく似ていて、目の前の風景と地理感覚が一致しないことに戸惑ってしまう。
多摩川方面へ進み途中で第一京浜を渡ると、六郷橋から下りてくるスロープの向こうに、テニス場や遊具が設置された小さい公園のようなスペースがある。宮本台緑地と呼ばれる公園で、敷地内にどーんと立っているのが旧六郷橋の橋門と親柱だ。
ロータリーに囲まれた目立たない場所にある公園だが、およそ100年前に架けられた旧六郷橋のアーチが役割を終えた今もこうして多摩川を見つめている様子にはグッとくるものがある。ちなみにもう一対の親柱は橋を渡った川崎市川崎区宮本町の稲毛公園に保存されているそう。
多摩川土手を歩き六郷水門を目指す
多摩川に出て土手沿いを河口に向かって歩く。対岸には川崎の高層マンションやビル群が川の間近に見える。このような風景は同じように河川敷が広がる都内の荒川や江戸川ではあまり見ることがなく、ああ、多摩川に来たなという感じがする。
大阪の淀川河川敷のすぐそばに梅田の高層ビル群が立ち並ぶ風景も好きで、河川敷とビル群という組み合わせには、なぜかわくわくしてしまう。
多摩川河口の方を見ると、大師橋の特徴的な主塔とケーブルと、その向こうに羽田の管制塔が小さく見える。ここまで来ると、海まであと少しだという感じがする。
またしばらく進むと土手の道の右手に変わった形の構造物が現れる。六郷水門だ。
六郷用水から多摩川への排水と、多摩川増水時の逆流防止などを目的として多摩川改修工事の一環として建設されたもので、昭和5年(1930)に着工し昭和6年(1931)に竣工した。丸みを帯びたコンクリート造の柱と緩やかなアーチ状の梁が特徴的で、設計者は不明だが、当時の内務省多摩川改修事務所長の金森誠之(しげゆき)が考案した金森式鉄筋レンガが使用された。建設から90年以上経つ現在も水門としての機能を保っている。
水門の付近には多摩川の水面に釣り糸を垂らしている人たちがいて、おそらく地元の人だろうか、こういう風景を見るだけでも水門が現在でも「使われている」と感じる。1931年に建てられて以来、川崎大空襲も、京浜工業地帯の復興も、70年代の大気汚染も、この場所から見ていたのだろう。
川敷の方から六郷水門をしばらく眺め、釣り人の数が減ったタイミングで私も多摩川を後にした。23区の東の端でも南の端でも、河川敷を歩く気持ちよさは変わらないのが良い。
取材・文・撮影=かつしかけいた
【参考文献・URL】
大田区立図書館公式サイト,「蒲田地区その1(蒲田図書館)」,(2026年1月14日参照).
https://www.lib.city.ota.tokyo.jp/contents?1&pid=213
新倉善之 文 ほか『大田区の歴史』,名著出版,1978.6. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/9641458 (2026年1月14日参照)
月村吉治 編著『蒲田撮影所とその附近』,月村吉治,1972. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/12437182 (2026年1月14日参照)
『区勢要覧』昭和43年版,東京都大田区,1968. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/3047348 (2026年1月14日参照)
『横浜植木株式会社100年史』,横浜植木,1993.4. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/13098756 (2026年1月14日参照)
三井住友トラスト不動産HP,「このまちアーカイブス 東京都 大森・蒲田」 4:「時代の先端をゆく蒲田」,(2026年1月14日参照).
https://smtrc.jp/town-archives/city/omori/p04.html
榊原千爽子・高橋信雄・神沼英里,「アーケード商店街のデータサイエンス:アーケード商店街の地理情報分析と観光クチコミ数予測モデル」,名古屋市立大学大学院芸術工学研究科紀要 芸術工学への誘い vol.26(2021) 49(名古屋市立大学学術機関リポジトリ),(2026年1月14日参照).
https://ncu.repo.nii.ac.jp/records/3163
株式会社Fujitaka,「日本でのアーケードとは」「日本のアーケードの起源」,(2026年1月14日参照).
https://www.fujitaka-arcade.jp/rekisi/rekisi.htm
地域情報誌編集委員会 編, 2003年9月,「蒲田・キネマの思い出」, わがまち大田蒲田西地区推進委員会「かまにし」第9号,(2026年1月14日参照).
https://www.city.ota.tokyo.jp/kamata/ts_kamatanishi/jouhoushi/backnumber/bucknumber1-40.files/9.pdf
小林編纂部 實測『東京府荏原郡蒲田町・六郷町全圖 番地界入』,[川流堂] 小林又七,1931.6. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/8312052 (2026年1月14日参照)
大田区 都市基盤整備部 都市基盤管理課, 「旧六郷用水散策路案内マップ」(PDF), (2026年1月14日参照).
https://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/douro_kouen_kasen/sansakuro/kyuurokugouyousuipromenade.files/230927rokugouyousui.pdf
土木学会関東支部, 関東の土木遺産「六郷水門」, (2026年1月14日参照).
https://www.jsce.or.jp/branch/kanto/04_isan/r3/r3_4.html
国土交通省関東地方整備局,「多摩川のみどころ」, (2026年1月14日参照).
https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000099110.pdf









