ああ、まずい。焦った私は、散歩のスタイルそのものに「味変」を起こせないか、模索を始めた。ラーメンに高菜を加えるようにして、いつもの散歩にちょっとだけ薬味を混ぜて、「味変」をもたらすのだ。
思いついたのは、「アウトソーシング犬散歩」という試みである。
それは、簡単に説明すれば、「他人の飼い犬を自分の飼い犬だと意図的に錯覚して、散歩する」という行為だ。アウトソーシング、それは外部発注の意。飼い犬を外部発注するのである。
私は犬を飼っていない。しかし、自宅前の道路では毎朝、リードにつながれた犬たちが飼い主と散歩をしている。その犬を「自分の犬」だと勝手に認識して、平行的に同じルートをたどって歩く。そうすれば、犬を飼っていないのに、犬を飼っているという気分が散歩内に現れるのではないか。なんて画期的で、そして無責任なシステムだろう。くれぐれも誤解しないでほしいのだが、これは決して尾行ではない。相手にストレスを与えないことを前提とした、常識の範囲内のレクリエーションである。
いざ、飼い犬をアウトソーシング
ある朝、ウィンドブレーカーを着た飼い主に連れられて歩く、大きなゴールデンレトリーバーと出会った。朝日を受けた黄金色の毛並みはつややか。「きみに決めた」とばかりに、私はそこから十歩ほど離れた間合いで、何気なく横を歩きながら、「アウトソーシング犬散歩」を開始する。
犬が立ち止まれば、私も立ち止まる。電柱に鼻を近づければ、「そうだよな、お前はいつも、そこが気になるんだよな」と心の中で笑顔を浮かべる。そうして歩いているうちに、その大型犬が、私の中でどんどん自分の飼い犬へと変わっていく。リードは本当の飼い主が握っているけれど、私は幻想のリードでゴン太とつながる。ゴン太というのは、目の前のゴールデンレトリーバーに私が非公式に授けた名前である。
飼い犬をアウトソーシングしていると、普段の散歩ルートでは絶対に通らない道に迷い込める。犬の歩行は、なんとも散文的だ。嗅覚、気配、よその犬の名残、そして飼い主のわずかな意向。断片的な要素の集積で、進行方向は決められていく。ああ、こんなところにこんな小路があったのか。その未知のナビゲーションの中で、私は新たな散歩の手触りを覚えていく。
そんな感じで「私の犬」と共に道草を楽しんでいると、次第に他の散歩犬たちも路上に現れ始めた。パグ、柴犬、ビーグル。私はチャンネルを変えるようにして、次々とその犬たちを「自分が飼っている」と仮想で上書きする。目には見えないリードが無数に伸びて、「飼い犬富豪」モードへと突入していく。
どの散歩犬たちも、同じ方向を目指している。大通りの横断歩道を越え、橋を越えていくと、現れたのは大きな森林公園だ。その奥に、金網に囲まれた見慣れないスペースが広がっている。入り口には「ドッグラン開放日」の看板。犬たちは、迷いなくそこへ入っていく。私は金網の外から広場の様子をぼんやり眺めるふりをして、全神経を集中させる。
チワワが走っている。ブルドッグが寝そべっている。シーズーとトイプードルがじゃれ合っている。
「全部、私の犬だ……!」
胸の中に、歓喜の声が響く。ここにいるのは、すべて自分の犬なのである。元気に育った、みんなよくぞ、ここまで元気に育ってくれた。一匹たりとも私が育てた犬はいないのに、私はこの散歩の果てにて、飼い主としての多幸感を存分に味わった。
これは散歩か、幻覚か。いや、どちらでも構わない。そもそも散歩という行為は、ささやかな白昼夢を味わうことなのではないか。その日だけの、一期一会の電柱たち。その隙間にあるまぼろしの匂いを嗅ぐことなのではないか。
明日もまた、知らない犬に出会えますように。いや、私の犬に、出会えますように。
文・写真=ワクサカソウヘイ






