関東大震災からの復活事業で作られた昭和通り
今日は三ノ輪からスタートだ。
三ノ輪の駅を出てすぐの交差点。
何かを感じないだろうか?
写真だとちょっとわかりにくいけど。
通称「昭和通り」の国道4号線で、かの渋滞で有名な「大関横丁」交差点の風景です。
向こうから来る車線が減っています。
いわゆる渋滞の“ボトルネック”ですね。
ちなみに、この昭和通りがいつ整備されたかというと、1923年(大正12)の関東大震災のあとに断行された「震災復興土地区画整理事業」によってだ。
ご存じの方も多いと思うけど、震災直後の未曾有の大混乱のなか、敢然と復興に立ち向かったのが後藤新平さんらで、彼は辣腕を振るい、東京大改造に着手した。
以下、「内閣府防災情報のページ」の『報告書(1923 関東大震災)』から一部引用させてもらいますと。
後藤新平は、震災火災がまだ続いている2日の夜から想を練って「帝都復興根本策」を記した。内容は、「一、遷都すべからず、二、復興費に30億円を要すべし、三、欧米最新の都市計画を採用して我が国に相応しき新都をつくる、四、新都市計画実施のために地主に対して断固とした態度をとる」というものであった。
引用元
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai/index.html
「遷都すべからず」。
かっこいいのである。
実際に「東京を見捨てよう」という見解もあった。
引用を続けますと、
被害の全容が判明途上の3日ごろから「遷都論」が出てきた。軍は朝鮮半島の竜山、兵庫県加古川、府下八王子などを候補地に検討を行っていた。また、大阪の新聞には、高名な都市計画家片岡安が河内平野への遷都を提唱する記事がでた。
それらを撥(は)ねつける。
一番大事なのは道路だ
そんでね、これにも注目してもらいたい。
「三、欧米最新の都市計画を採用して我が国に相応しき新都をつくる」。
いろいろな側面はあるんだけど、なかでも最重視していたのは、どうも「道路」らしい。
道路がちゃんと整備されているか。
それが文明国の証なのだと。
ということと次第で、今から100年前、後藤新平さんは、関東大震災という悲劇を悲劇のままにすることなく、震災復興事業によって“日本”の価値をもう一段高めて文明国にふさわしい姿にしようと奮闘したのであった。
ちなみに国土交通省もこのような見解。
美しい道路づくりは、文明国であると同時に豊かな文化を有した国として国内外からの評価を得るためには必要不可欠である。なぜならば如何に優れた文化遺産や施設を有していたとしても、それらを訪れるには道路を利用する必要があり、道路そのものが国や地域の体験の基本的空間となるためである。道路はそれ自体が構造物として見られる対象である以前に、美しい風景を体験するための場と機会を提供する装置であることを忘れてはならない。そのため、美しい道路づくりを考えることは、 その地域や国の環境の美しさを考えることとほぼ同義となる。
引用元
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/road_design/pdf03/03.pdf
それから、秀逸な“宣言”がこれ。
四、新都市計画実施のために地主に対して断固とした態度をとる
権利を主張し過ぎるな。
宅建受験勉強でいえば、「法令上の制限」あたりの話につながるよね。
そんで「地主に対して断固とした態度」で“断行”したのが震災復興土地区画整理事業です。
自分の土地を少し削って(減歩といいます)道路を創り出す。どれくらい削り出すかという「減歩率」も強烈だったのであろう。
かくして、文明国にふさわしい幅員の国道4号線ができた。
……この「大関横丁」の交差点までね。
でもここから先、頓挫。
昭和天皇も嘆かれた
ちなみになんで頓挫かというと、もちろんおカネ。
復興事業は昭和通りだけではなく都内各地で行われるわけで、となると、まぁありがちなことなんでしょうけど、「復興費に30億円を要すべし」という見積もりが、いつしか青天井に。
結果、その巨額ぶりにビビった世論もあって、復興事業は中途半端に終わった。
中途半端に終わったとはいえ、世の中的には旺盛な建築意欲があるもんだから、あれよあれよと建物が建ち並び人が集まってきて……。
となると、本来は「復興途上」のはずだったのに、もはや街づくりの整備は不可能。
それが恒常の姿となった。そんなこともあるので「東京復興、いまだならず」という見方もある。
ちなみにだけど、こういうお言葉も。
昭和天皇です。
「震災のいろいろな経験はあります が、一言だけ言っておきたいことは、 復興に当って後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが……。もし、それが実行されていたら、おそらく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います。」
引用元:国土技術研究センター
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/road_design/pdf03/03.pdf
道路を気にしながら、ちょっと進むと大きな商店街がある。
その手前に東京さくらトラム(都電荒川線)三ノ輪駅がある。
「え、なんかかわいいいね! 駅も電車も」
「乗りたいと思うけどちょっと街宅建してからね〜」
と言ってエルボーと商店街を抜ける。
「なんか、懐かしい感じで楽しいね!!」
「お総菜買っちゃう?」
商店街の雰囲気を少し楽しんだところで今日のオレの目的地、「元野球場」を探す。
「野球場ってここ?」
「いや、オレが探してるのは“元”野球場なんだ」
東京スタジアムは大規模再開発の走りかも?
じつはこの界隈に、「東京スタジアム」という野球場があった。
プロ野球チームの大毎オリオンズ(今の千葉ロッテマリーンズ)の本拠地だった。
ちなみに大毎オリオンズの「大毎」とは、映画会社の「大映」と、毎日新聞の“ハイブリッド”だ。
もちろん、これって古い話で、東京スタジアムがあったのは昭和37年(1962年)から和52年(1977年)まで。たった15年くらいだったみたいです。
でもね、書籍「『東京スタジアムがあった: 永田雅一、オリオンズの夢』(河出書房新社)によりますと「下町に咲く『光の球場』」と呼ばれていたみたいで、たいそうデラックスな球場だったみたいです。
でもなんで下町に?
前出P.22にこうあります。
南千住は上野、浅草を結ぶ三角形の一角にあたる。ただ懸念もあった。南千住は下町で、家内工業などの中小企業が多い。庶民の町なのである。そのような地域で、当時入場料が二百円から三百円する野球観戦は簡単にできない。結局、渋谷、新宿などの山の手のファンをどの程度この地に脚を運ばせられるかが大きなポイントだった。
大毎オリオンズの親会社も鉄道系ではないしね。
いつの世も、不動産的にいえば交通系アクセス問題というのが浮上するわけです。
そんな下町に「東京スタジアム建設プロジェクト」が浮上したのはなぜか?
そうです、空き地があったから。
空き地というか跡地ですね。旧千住絨所跡地です。
広大な跡地の再開発プロジェクトという側面もあったのかな。
いずれにしましても、なにかの建設計画を立案する場合、一番大事なことはなにか。
そうです。立地です。
広大な空き地=跡地がなければ話にならないですしね。
ではここで問題。
東京スタジアムの建設計画が持ち上がったとき、ほかの候補地はどこだったでしょうか。
当時、東京のどのへんに同じような規模の広大な空き地=跡地があったでしょうか。
答えは、新宿。
西新宿の淀橋浄水場跡地です。
いまは「西新宿の超高層ビル街」になっていますけどね。
夕陽と観覧車とジェットコースター
さあお待ちかね、東京さくらトラムに乗って移動だ。
東京さくらトラムっていうのは都電荒川線の愛称。東京に残る唯一の都電だ。
「なんかいいよね〜この感じ。」
「結構人が乗ってきて混むんだね!!」
そんなことを言いながら『あらかわ遊園』に行ってみる。
門をくぐって先へ進むと結構大きな施設がある。
『あらかわ遊園』の歴史は意外に古く、はじまりは大正11年(1922)。
昭和通りとおなじく大正時代にさかのぼる。
当初は民営の遊園地だったみたいなんだけど、昭和25年(1950)に、荒川区立荒川遊園となったそうです。
そうこうしているうちに夕方になった。
きれいな夕陽ね、といいながらエルボーはオレ見る。
道路とか東京スタジアムとか、今日はいろんな“昔”を振り返ったね。
たぶんエルボーはプロ野球とかあまり知らないんだろうけど、でも楽しんでくれたようだ。
ちなみに『あらかわ遊園』のウリは、日本でいちばんおそいジェットコースター。
まるで二人の恋の進展のようだ。
取材・文・撮影=宅建ダイナマイト執筆人