内と外、「お歯黒どぶ」と『土手の伊勢屋』

吉原遊廓の周りには敷地をぐるりと囲むようにどぶが設けられていて、幅5m以上の「お歯黒どぶ」と呼ばれるそれには遊女の逃亡を阻止する役割がありました。

お歯黒どぶは時代の流れとともに埋められ、現在は「お歯黒どぶの石垣擬定地」として道路になっています。

碑や説明パネルがあるわけではないので、探すのがやや大変かもしれません。(今回も「だいたいこの辺かな?」というざっくりした感じでした)

どぶの名前の由来については、遊女が使用したお歯黒を流したことからという説と、お歯黒のように黒く、汚いどぶであったという説の二つが語り継がれています。

吉原大門に近い場所に建てられている、1889(明治22)年創業の天ぷらの老舗『土手の伊勢屋』は現在も営業中。

もともとの屋号は「伊勢屋」でしたが、店の前に吉原の土手があったことから“土手の伊勢屋”と呼ばれるようになり、店名として受け継がれています。

明治時代に入ると吉原遊廓の活気は次第に衰えていきますが、それでも店には朝帰りの男や遊女屋の客引きが訪れ、夜には遊女から出前の注文も。

朝から晩まで休むことなく営業していたといわれています。

曲がりくねっているのには意味がある?「五十間道」

日本堤という堤防から、吉原唯一の出入口・吉原大門までの道が「五十間道」です。

約100mのこの不自然に曲がりくねった道は、将軍や大名が街道を通る時、吉原遊郭を見せないようにという配慮からできた形だそう。

東海道の戸塚宿の遊郭跡にも同様に曲がりくねった道があったことがわかり、こちらも御上の通る東海道から花街が見えないようにしていたと考えられます。

違う世界への名残惜しさ「見返り柳の碑」

遊廓の入り口付近にあるのが「見返り柳」。遊廓で遊んでから帰る男が、柳のあるあたりで名残惜しんで後ろを振り返ったことが名前の由来となっています。

説明パネルによると、吉原の見返り柳は京都の島原遊廓の門にあった柳を模したものだそう。

見返り柳は枯れるたびに新しい柳に植え替えられ、現在に至るまでその存在感を示しています。

かつてここを訪れた沢山の男たちが、非日常を楽しんで日常に戻る時に振り返った場所。

見返り柳は川柳の題材としてもよく用いられていて、吉原遊廓という特別な場所への憧憬も感じさせます。

特別な場所「吉原遊廓」で生きた女性たち

遊女の平均寿命は江戸時代の女性の平均と比べても短く、儚いものでした。

幼い頃から妓楼に売られ、初めて客を取る水揚げを経験し、それでも最高位の太夫となれるのはほんのひと握りだけ。決して華やかなだけではない世界です。

「特別」な場所である吉原遊廓にいた遊女たちは、大半が「普通」の女性だったのはないでしょうか。

普通であるのに、他の生き方を選べない。初めから選択肢が与えられていない。

当時の遊女たちが受け入れるしかなかったその事実は、令和に生きる一般市民には想像すらつかないもののように感じます。

吉原の持つ闇はどこまでも深く、まるで底のない穴のよう。

しかし欲が生み出したその闇の深さが、ここにいた遊女たちの生温かさが、今日まで多くの人を惹きつけている。それもまた、確かな事実なのだと感じています。

取材・文・撮影=望月柚花