江戸きっての花街「吉原遊廓」の歴史

散歩に出る前に、まずは吉原の歴史についてざっくりとご説明しましょう。

歴史の上で「吉原遊廓」という場所は二箇所存在しました。

江戸幕府が開かれて間もない頃、現在の日本橋人形町に遊廓が許可され、幕府公認の花街が誕生。これを「元吉原」といい、現在一般的に吉原と呼ばれている「新吉原」の前身であったとされています。

元吉原は明暦の大火(1657年)で焼失。移転を命じられた先が、現在の東京都台東区千束四丁目と三丁目でした。

新吉原の敷地面積は2万坪ほど。最盛期の遊女の数は数千人にもおよび、魚河岸や芝居町と並んで「江戸で1日に千両落ちる場所」とも言われていたそうです。

吉原でトップに上りつめた「寛永三名妓」

吉原遊廓での遊女の階級は、上から「太夫」「格子女郎」「局女郎」「端女郎」「切見世女郎」に分類され、太夫が消滅した宝暦(1751年〜1764年)以降は、最高位の遊女を「花魁」と呼ぶようになりました。

太夫が花魁と呼ばれるようになる前、吉原では吉野太夫、夕霧太夫、高尾太夫の3人の太夫が注目を集めていました。

彼女たちは寛永三名妓とも呼ばれ、その優れた容姿と芸事への才能、高い教養と聡明さは群を抜いていたとされています。

中でも高尾太夫は最も有名な遊女で、その名前は代々襲名され、6〜11代目(諸説あり)まで続いていきました。

 

遊女の参拝した稲荷神社をルーツに持つ「吉原神社」

吉原神社は、1872(明治5)年に吉原遊廓に存在した稲荷神社を合祀した神社です。

1935(昭和10)年には弁財天を祀る吉原弁財天祠も加わり、時代とともに現在の吉原神社の形に変化していきました。

それまで遊廓内には、九郎助稲荷、開運稲荷、榎本稲荷、明石稲荷の4つの稲荷神社が四隅にあったとされ、遊女たちに一番人気があったのが九郎助稲荷だったそうです。

九郎助稲荷では毎月の午の日(うまのひ)には縁日が開かれ、商人や植木屋が出店してそれは賑やかだったといわれています。

外の世界に出ることができない彼女たちは、一体どんなことを稲荷神社で願ったのでしょうか。

吉原唯一の出入り口「吉原大門」

吉原遊廓の唯一の出入り口が「吉原大門」です。治安を良くするためだけではなく、遊女の逃亡を防ぐ目的を兼ねて、出入り口はこの門だけとされていました。

吉原遊廓の栄えた江戸当時、大門は木造の黒塗りのアーチ型の楼門だったそうです。明治時代に入ると鉄製の門が再建されるものの、1911(明治44)年に大火で焼失。

関東大震災後には大門は撤去され、現在は「吉原大門跡」として目立たない形で大門があった場所を示しています。

吉原大門は現在、交差点の名前と、都営バスと台東区循環バスのバス停の名前として残っているばかりです。

この門をくぐり抜けた先の非日常空間の中には、どのような風景があったのか。そして、そこから出ることができない遊女たちはどのような暮らしをしていたのか。

次回の後編では、いよいよ吉原遊廓の内側を歩きます。

取材・文・撮影=望月柚花