彼女にアイスコーヒーをぶっかけてしまった理由はですね、おしゃれにカフェで仕事をしている感を出そうと思ってノートパソコンをひらこうと思った瞬間、ヒジがテーブルの上のアイスコーヒーのLサイズのプラカップをふっとばしたのだ。
エルボースマッシュっすね。
飛んでいったオレのLサイズのプラカップは、彼女に命中したとたん、中身を派手にぶちまけた。
やばっ!!!!!!!!!
ブチ切れた彼女にどやされるのを覚悟していたが、彼女はギャハギャハ笑っている。これはこれでやべー。ちなみに彼女は翌日も店にいて、オレの顔を見るなり思い出して大爆笑しはじめた。
そこから少し話をするようになってきて、ま、きょうこうして初デートとなったわけです。
「昼間のデート」の参考書を買います
エルボーをデートに誘ったものの、どうデートするか。
じつはそんなに彼女のことを知らないので、とりあえず、初デートから「夜」はやめておこうと、なぜかこのとき妙な自制心が働いて「昼間、お散歩デートしない?」と言ってしまった。
エルボーは「昼ならいいよ」と言うので、まぁこれはこれでよかった。
しかし実はオレ、昼間のデートは得意じゃない。仕事がら街を歩くことはあるが「お散歩デート」なんてしたことはないし、夜ならともかく「昼の時間」なんて持て余すにちがいない。
やべーな。
とはいうものの、いまさら「やっぱり夜はどお?」というのもバカ丸出しなので「じゃあ散歩コースはオレが考えておくぜ」とクールにキメたのだが。たちまち困ったオレは、すごすごと東京丸の内の丸善オアゾ店にいき、この本を買った。
“街がわかる”というフレーズが表紙にある。ぱらっと中身を見たら街のうんちくが書いてあるので、迷わず選ぶ。
デートで話が弾まなかったら編集部が書いていることをそのまま話せるじゃないか。
とりあえずこの本に書いてある散歩コース、上から順番に行ってみるか。
ははは。「昼のデート」もオレにかかれば簡単だな。
そんで、街を歩きながら得意とする宅建関連の不動産知識を語ったりなんだりすれば、エルボーもオレに興味を持つに違いない。
カネがないのがバレなければ、なおよし。
そしたらコッチのペースだ。
ぐはは。
……と、鼻息が荒くなったオレは、目次を見る。
ぜんぶで何コースだ? 39か。ぜんぶエルボーと行っちゃったらどうしよう。
かくして、オレとエルボーは、上野・アメ横界隈で初デートをすることになったのでありました。
二面性がある街なんですよ、上野って。
エルボーは全くめかしこんでこなかった。足元なんてスニーカーだ。
んー、このパターン初めて~。
そっか。オレとのデートをリラックスして楽しもうと思っているのだな。なかなかいい読みだオレは。
そう思いながらも動揺が隠せない。
いや、まずはここからだ、ここから始めるのだ。
オレはエルボーに言った。
「西郷さんだよ」
「知ってる」
……とりあえず、会話はした。よし、次にいこう。
「ねぇエルボー。聖と俗、二つの顔が隣り合わせで楽しめるのが上野散歩の醍醐味なのである、のだ」。隠しきれない動揺がオレを襲う。雑誌6ページの出だしをそのまま言ってしまった。
西郷さんの丘から上野駅方面を見下ろしてみる。
向かって右が、いまオレたちがいる「聖なる上野の山」。左が、JRの高架下とアメ横。上野駅から御徒町駅界隈一体に広がっているんだぜ。
「……知ってるけど」。
さらに焦ったオレは、宅建関連の不動産知識でカバーすることにした。
左側のグリーンの部分が、いわゆる「聖なる上野の山」。上野恩賜公園から博物館・美術館方面だ。全体が都市計画で公園(都市公園)に指定されているため、公園内に工作物などを設置して占有する場合、公園管理者(ここの場合は東京都)の許可が必要となる。さらに都市計画法による風致地区が指定されていて、公園内の木々の伐採などもできない。
一方、右側のピンクのほうが上野の山の下、商業地域。「俗なる上野の街」だ。俗だろうが聖だろうが性だろうがオッケー。商売中心。なんでもありあり。
「そういうのが決まっているのね。」
「そう。決まっているんだ。」
「近くなのにふんいきがぜんぜん違うなーと思ってたけど」
エルボーはそう言って、西郷さんの先、聖なる上野の山の奥地に行こうとしている。
ここからは、『国立西洋美術館』『国立科学博物館』『東京国立博物館』が並んでいる。
エルボーは美術に興味があるのか。
ある。ない。ある。
どっちだ。
オレは完全に、純然に、芸術や美術には興味がないんだけど、エルボーが入りたいといったら入らざるをえんわな。
しょうがないわな初デートだしな。
『東京散歩地図』にも載ってるしな。
それにここは聖なる上野の山だ。まだ「性なる上野」を考えてはいかん。
ちなみにこの山の下、鶯谷界隈が「性なる上野」。ラブホ街。
しかし、さすがにまだ早いだろ。
そもそも、ろくに会話していない。
それに午前中だ。
でもな。
アタックしてみなければわかんないかも。ろくな会話をしていないけど、いきなり「性なる上野」に誘ってみたとして、まぁありえないとは思うが、まんまんまんがいちだよ、「いいわよ」なんてことになったら果たしてどうなる。
どうなる、オレの運命は……!!!
……あ、いかんいかん、そんなことを匂わしてはいかん。
オレは自分に言い聞かせた。
焦っちゃ、ダメ。
なぜスカイツリーは建たなかったのか?
意外なことにエルボーは、美術館や博物館を素通りした。
ここまま寛永寺方面にいくのか、と思ったら、エルボーは「あ、噴水」といって噴水公園に向かう。
噴水を眺めながら「天気がいいと気持ちいいね」「そうだね」と事実上なにも言っていない会話をかわしたオレたちだが、ここらへんでエルボーの気持ちを引こうと「宅建ネタ」を披露することにした。
ここは、東京スカイツリー(当時は新東京タワーとか第二東京タワーと呼んでいた)の建設候補地だったのだ!!
んー、候補地というと、ちょっと言いすぎか。誘致活動をしていた、かな。
だけど残念、公園管理者である東京都は「都市公園法、風致地区、建蔽率、容積率などの絡みから、新東京タワーの建設は不可能」とのつれない反応だったようだ。でもそれもしょうがないわなとも思う。さっきも言ったけど、ここ上野公園は、都市公園法による公園となっている。ちなみにですが、公園は法的に二つに大別されるんですよ。
一つは自然公園。国や地方公共団体が風景地の保護や利用のために指定する国立公園などのこと。
もう一つは都市公園、都市の住民がスポーツ、レクリエーション、休憩などの「日常生活にゆとりと潤い」が得られるように整備されている。
いずれにせよ公園なのだから、自然公園だったら自然公園法により、都市公園だったら都市公園法により、公園内での建築行為などはがんじがらめに規制されている。
事実上、建築禁止。
そのうえ、念には念を入れてということなんだろうか、これもさっき言ったけど、ここの公園全体に「風致地区」が指定されていて、木々の伐採などが禁じられている。
となると、公園や風致地区の指定を解除しなければ、ここに民間の超高層タワーを建築するなど無理な話だ。
ちなみに、建蔽(けんぺい)率と容積率という用語だが。いずれも不動産を取引する際に必ず出くわす用語なので、将来家を買いたいとか建てたいと思っているんだったら知っておくべき用語だ。ここで軽く説明しておくと……。
まず建蔽率とは、その敷地を建物でどれくらい蔽(おお)ってしまっていいかを決めている数値だ。敷地面積に建蔽率を掛けて建築面積を計算する。敷地面積が100㎡で建蔽率が40%だったら、建築面積は40㎡だ。60㎡は庭とかにしておかなければならない。
容積率のほうは、その敷地にどれくらいの大きさ(延べ面積)の建物を建ててよいかを決めている数値だ。敷地面積に容積率を掛けて延べ面積を計算する。敷地面積が100㎡で容積率が500%だったら、延べ面積は500㎡だ。各階を100㎡とすれば5階建てとなる。50㎡だったら10階建てだ。
でもな。
スカイツリーは建たなかったけど、こうして噴水公園が残ったんだから、まぁそれはそれでよかったのかもな。
……みたいな話をしようと思って、エルボーのほうに顔を向けた。
すると、エルボーがいない。
なんとおじさんがカメを散歩させていた。自由な街だぜ上野。エルボーはいつの間に仲良くなったのか、カメを手に乗せてもらっている。
「わたし、生物部だったの高校生のとき。」
「へー。」
エルボーとカメおじさんは、なにやら楽しそうに話をしている。
なるほどね、こんな出会いもあるんだな。昼間の散歩っていうのも、意外と楽しいのかも。
ボードワン博士の「顔」について
そうか、エルボーは生物部だったのか。なのでオレは、すっげー安直なんだけど「上野動物園に行ってみようぜ」と言ってみた。
するとエルボーは、「え、行く行く」と、本日はじめてと言っても過言ではないほどの良好なリアクションを見せたので、勢いあまったオレたちは森を突っ切って行ってみることにした。
途中にボードワン博士の銅像がある。この場所を“上野公園”にした立役者。
ボードワン博士がなぜ「立役者」なのかというと、話は江戸時代にさかのぼる。当時、この上野公園の広大な一帯は、徳川幕府の菩提寺「寛永寺」の敷地だったらしい。
で、幕末。ここ上野公園で、旧幕府側の彰義隊と明治政府軍の戦、いわゆる上野戦争がありまして、結果、彰義隊は壊滅。その後明治政府は、全山を収用したうえ「徳川の匂いを消せ。徹底的に立木を切ってしまえ」とばかり、すさまじい破壊を試みようとした模様。整地して大学とか病院を建てちゃえ、みたいな勢いだったようだ。そこに現れたのがオランダから来日していたボードワン博士。博士は明治政府に「ここを公園にせよ」と提言した。
「まぁお待ちなさいよ明治政府。お気持ちはわかりますが、どうでしょう、せっかくの環境なんだからこのまま活かして、ここを公園にしたらどうでしょうかね。近代国家には公園が必要ですよ」というような感じだったのかな。
ありがとうボードワン博士。博士のおかげで、オレはここでこうして本日、エルボーと初デートを楽しめているのです。
そんな博士の功績を永遠に称えるべく、1973年(昭和48年)、公園指定100周年を記念して、ここにボードワンの銅像が建立された。
ただし、顔はボードワン博士の弟だった。
昔の新聞記事があったよ、とエルボーも笑っている。平成22年10月22日(金)の朝日新聞、夕刊の記事だ。その記事によると、銅像を建立する際、『オランダ政府から写真提供を依頼された親族が、間違えて弟の写真を提供した』とのこと。その後の展開がこれまた愉快で、なんと間違えられたまま、弟の銅像が「ボードワン博士」として公園にあったのでした。それも、なんと33年間。
あはは〜。このあたりのいい加減さが、オレっぽくて好き。
しかし「それもどうかな」ということなんでしょうか、平成18年に御本人「兄」の銅像が新し建立されたのでありました。ちなみに弟の銅像がどうなったかというと、今は神戸市のボートアイランドの公園で第二の人生を送っている。なぜ神戸なのかって?
『(幕末に来日していた弟は)1868年の神戸開港とともに、神戸のオランダ領事館の初代領事に就任した』と同記事にあり、そっか、そんなゆかりがあったのね。
さて動物園に到着。しかし、完全予約制。あちゃー。入れませんでした〜。
動物園の正面入口を通り過ぎ、路地に入る。すると昭和テイスト。ちょっと前に流行った言葉でいうとレトロ感。
「わたし、和のものが好き。」
「へー。」
そろそろランチどきだ。エルボーといったん近所のハンバーガー屋でハンバーガーを食った。
夜まで間を持て余したらどうしよう。密かに焦っていたら、エルボーが「ねえ上野公園で散歩の続きをしようよ」という。渡りに船だ。間が持てばなんでもいい。そしてオレたちは上野公園で、散歩の続きをすることにした。
早くこい夜。
「落ちない」大仏に行こう。
なんとなくオレも調子がでてきた。「東京散歩地図」のコースではないところに行ってやろう。男はやっぱりオリジナルだ。
オレはここに、ヘンな大仏があるのを知っている。
じつはオレは宅建試験を受験したとき、こっそりここに合格祈願をしにいったのだ。
過去に何度も顔が落ちている大仏。そしてとうとう、体がなくなって顔だけの大仏になった。もう(これ以上)落ちないという合格祈願の大仏だ。
そのまま階段を下り、不忍池に行ってみたんだが。
池の水面なんて見えないじゃん!!!
向こうに見えるビル街も、アメ横とおなじく商業地域だ。あっちに行けばなんでもありありの路地がある。この池の「縁」が、まさに聖と俗の境目だ。
蓮と蓮の隙間、たまに見える水面に、大量の鯉が集まっていて、口をパクパクさせている。
なんか怖えー。
がしかし、エルボーは愛おしそうに鯉を見ている。
「鯉のあらい」でも食いたいのだろうか。
闇市マーケットの土地は、果たして誰のもの?
そうこうしているうちに夕方。
ようやく、待ちに待ったネオンタイム。
日中は聖なる上野。
ネオンタイムからは俗なる上野。
まさに「二つの顔が隣り合わせで楽しめるのが上野散歩の醍醐味」なんですね。
……っていうかエルボーと結局こうして、真っ昼間から夕方までいっしょに過ごせたことになる。我ながらすばらしい。間をもたせることができたじゃんオレ。よし次はアメ横だ。
終戦直後の闇市の雰囲気も少しは残っているのだろうか。
そんなガチャガチャした活気がオレを高揚させる。
終戦直後の昭和22年。ここ上野駅と御徒町駅間のガード下に、猥雑な活気そのままに、闇市が長く続いていたみたいです。もっとも闇市は、もちろん東京だけの話ではなくて全国で展開(?)されていたんだけど、東京でいえば、上野のほか、新宿、池袋、渋谷、新橋など、戦前から主要なターミナル駅界隈にもあったと。
まず闇市は露天マーケットではあるものの、ある程度のマーケットを展開するには空き地が必要だ。
この空き地問題は、比較的かんたんに解決できる。
だってあたり一面、戦後は広大な焼け野原だもんね。そこにあったはずの建物はきれいに(といういい方が妥当かどうかはさておき)失くなっている。焼失した建物もあれば、建物疎開として強制的に取り壊された建物もあった。
そこに人々はやってきた。
次に「露天マーケットとはいえ、やはりそれなりの建物が必要だ」となると建物を建てるには土地が必要になる。ではその「闇市マーケットの土地は、果たして誰のものだったのだろうか」という疑問。不動産取引では、まずもって「権利の確認」が重要だ。権利がないのに「売る」とか「住む」とかは、そもそも議論にならないはずだが。
ちなみに、このガード下周辺の権利関係はどうだったのか。「東京のヤミ市」(松平誠著/講談社学術文庫)によると
『戦争末期、東京都はガード下の変電所を守るために、周囲を強制的に疎開させていた。そして1946年秋、東京都が管理していたこのガード下の道路を、まとまった露店街として借り受けたのは、なんと「下谷引揚者会」という引揚者団体である』。
戦地や疎開先から引き揚げてきた人たち、つまりまったくの素人がまとまって、なんとか今日と明日を生き抜くために、露店街を作ったということ、らしい。
カップルで住むならこの辺だな!
アメ横の歴史に思いを馳せている間に、いつしか宵闇せまる時間になってきた。
いいぞいいぞ。
「ねぇエルボー、メシ食ってかない?」
「いいけど。」
我思う。初デートはうまくいったんじゃなかろうか。
どうする。このまま『この街もあなたも気に入っちゃった。一緒に住んじゃおうよ』 とかになったら。
どうするオレ。
よし、となれば……。この辺りじゃ物価が比較的安い東上野あたりはどうだ。昭和通りの向こう側だ。いいかもいいかも。交通の便もバツグンだから出かけやすいし、それに近くには区役所がある。同棲したとたんに婚姻届を出すことも可能だ。
東上野の平均的な家賃は……よし、1LDKで10万円台とかあるな。
1LDKでも狭くない。なぜならば、愛があるからだ。
エルボーもきっと家賃の半分は払ってくれるはずさ。
生活費はちょっと多めに出してくれるかもしれない。
だってさ。それが愛ってもんだろ。
やばい、オレは、エルボーの愛に答えられるだろうか。
いや、その問自体が、ナンセンスだ。
だってオレ自身が、愛なのだから。
よし、となれば今宵、エルボーとの愛を確認する義務が、オレにはある。
よし、となればメシだ。メシを食って帰らねばっ!!!
ぜったいに、メシだ。
「でさ、メシはなに食べたい?」
「あ。」
なに、「あっ」て?
「わたし明日朝、早いんだったわ。帰るわ。」
「え?」
「ごめんね。」
白いスニーカーは、あっという間に雑踏に紛れていく。
「きょうは楽しかった。ありがと」
回転が上がるスニーカー。あいつ歩くの速いな!
「また明日、カフェでね」
くるっと振り向いて手を振るエルボー。
エルボーはもう振り向かなかった。
「メシ食ってこーよぉー!!!」
かくしてオレの絶叫は、闇に消えていった。
取材・文・撮影=大澤茂雄(宅建ダイナマイト合格スクール株式会社)