お話を聞いたのは……

橘流寄席文字書家 橘 右樂さん(TOP画像)

1946年、東京葛飾生まれ。寄席文字伝承者。1975年橘流寄席文字家元・橘右近に入門、1977年より右樂を名乗る。その傍ら江戸期から現在に至る寄席とその周辺情報の調査研究をライフワークにしている。

江戸期より現在に至る寄席と周辺情報をまとめた『玄人のための寄席の年表』。常に修正更新して、ご自身の研究資料として毎年製本する。
江戸期より現在に至る寄席と周辺情報をまとめた『玄人のための寄席の年表』。常に修正更新して、ご自身の研究資料として毎年製本する。
文字情報しかなかった昔の寄席の写真も、丹念に探し続けている。
文字情報しかなかった昔の寄席の写真も、丹念に探し続けている。
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「関東大震災の前、東京には150軒から200軒近い寄席があったんですよ」。壁一面の本棚を埋め尽くす膨大な本と資料、そして無数の筆と製作中のめくりにあふれた仕事部屋で、橘右樂さんが教えてくれた。落語協会の書き物や落語芸術協会のめくり、池袋演芸場の看板を担当する、多忙な寄席文字伝承者のひとりだ。

明治21年(1888)に東京で興行していた寄席の一覧には、右樂さんが調べ上げた210軒の寄席の名前がずらり。もちろん手書きだ。当時の東京市は15区、区外だった6つの郡を震災後に統合したのが現在の東京23区の原形なので、その総数は更に多かったかも知れない。

右樂さんが調べて作った、明治21年(1888)当時の東都15区内の寄席210軒の総覧。
右樂さんが調べて作った、明治21年(1888)当時の東都15区内の寄席210軒の総覧。

寄席も落語も暮らしの近くにあった頃

「その頃、寄席があったのは町の裏通り。長屋の2階をぶち抜いて寄席にして、1階は楽屋と席亭の住まいってのが多く、毎日100人も客が来れば、家族くらい食っていけた。そんな時代です」。

明治の最盛期、東京の噺家は約400人程度、一方寄席は200軒以上。だから「噺家はみんな3〜4軒の寄席を掛け持ちするの。人気者だったら6〜7軒とかね」。

それだけ町に寄席があり、人々の暮らしと落語が近かったということ。交通機関も発達していなかったから「噺家は歩いて寄席に行ってたんです。たくさん寄席があったし、町内の人しか相手にしない。まだ江戸が続いていたってことですよ、あの日まではね」。

立て板に水のごとく、当時の寄席を語る右樂さん。貴重な古い寄席の写真もどっさり出てくる。

「入門した頃、師匠の橘右近に『寄席文字以外に自分の売りを作れ』って言われたんです」。

そこで1993年頃から、江戸時代から現在に至る寄席に関する情報を収集研究するようになった。2019年のNHK大河ドラマ『いだてん』での寄席再現の指導、筆耕を担当をしたのは記憶に新しい。

「儲からなきゃやめる、やめたらそこにまた寄席ができるの繰り返しで、年に30、40軒の増えたり減ったりは当たり前」と、町の商売として息づいていた寄席。もちろん落語だけをやっていたわけではなく、「だから昔から色物(落語以外の諸演芸)が入ってました。落語だけじゃ飽きちゃうでしょ? 寄席や噺家は、色物を大切にするんです」。

しかし「桁違いのお金がもらえるお座敷の仕事が入ると、寄席をすっぽかす噺家が多かった」。何軒も掛け持ちしてやっと食える時代、ご贔屓(ひいき)から呼ばれれば、その報酬は大きい。「看板に名前があるのに出ない。あいつまた抜いたのか!ってね、客は怒るし席亭は困る」。

そこで出資者を募って、大正6年(1917)に東京演芸合資会社が設立された。寄席出演のスケジュールを一元化し、給料制という新たな団体を作る。

「食えない人は喜んだんだけど、稼げる人から不満が出た。こんなはずじゃなかったって」。反対派は落語睦会を発足させた。「噺家はみんな一匹狼だからさ、団体ができたり無くなったり、その繰り返し」と笑う右樂さん。そんな中、ついにあの日がやってくる。

全てが変わった9月1日以降

裏通りの小さな寄席はもちろん、当時一流と言われた寄席の多くも焼失してしまった。

「震災後は狭い裏通りに建てることができなくなりました」。だから「わずかに残った下町の寄席が、震災後1カ月で興行再開、満員御礼だったそうですよ」。

なんとあの帝国ホテルにも演芸場があったという! 「大震災当日がホテルの落成式だったんです。元々は演劇用に作られたけど、疲弊する市民のため、映画や講談、落語を上演しました」。

残念ながら出演者等の公演記録は不明とのことだが、演芸場自体は昭和10年(1935)まで利用が続いた。

大正13年(1924)2月25日、ついに落語協会が発足した。人々を元気付けようとの使命感は無論のこと、大阪の吉本興業が東京の人気芸人を引き抜いていったこともあり、ここで団結という機運になったのだろう。帝都復興のために日本中から労働力が集まり、娯楽への欲求も増してくる。

「やっぱりね、人は笑いやゆとりが欲しいんです。のちに映画演劇といった強敵も現れ始めますから」。

昭和5年(1930)には落語芸術協会が発足し、それまで繰り返してきた離合集散に終止符が打たれた。「儲かりそうだから寄席でもやろうっていうのは震災前までの話。関東大震災で“江戸”が消えたんです」。

「復興を経た東京では、娯楽も多彩になって、何がなんでも寄席ということはなくなりました。でも今もしぶとく生き残ってますよね」と右樂さん。

落語協会が誕生して2024年2月で100年が経つ。現在、各派合わせて落語家は約600人、都内の寄席は4軒となった。

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落語協会のあゆみ

大正6年(1917)
東京演芸合資会社を設立。のちに反対派が落語睦会を結成。

大正11年(1922)
東京市15区に84軒の寄席を確認。

大正12年(1923)
関東大震災。東京市15区の寄席は34軒に激減。10月には興行再開する寄席も出現。

大正13年(1924)
落語協会発足(後に東京落語協会と改名)。東京市15区の寄席は117軒に激増。

昭和5年(1930)
落語芸術協会発足。

取材・文=高野ひろし 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2023年9月号より

大正12年(1923)に起こった関東大震災から、今年(2023年)9月1日で100年を迎える。10万人以上もの犠牲者を出した未曽有の大災害のあとに始まった「帝都復興」の足跡は、現代の東京でもまだたどることができる。当時のまま残されたものは数少ないけれど、修繕を経て今も大切にされている場所からは、そのころ込められた祈りの形が垣間見えるはずだ。過去と現在を往来するように、かつての人々が見た光景を想像しながら街を歩こう。これからの東京の100年にも、その祈りが継承されることを願って。
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