昭和末期の田舎道に、時折現れるチャンス

雨に濡れては乾くのを繰り返してバッサバサの紙束に化した雑誌に向けて、小僧は小さく口笛吹き吹き、あたかも単なる小石の代わりだよと言わんばかりの退屈そうな所作でキックをかましながら歩き、実際は超真剣に雑木林のほうにそれを移動させようとしていた。ド田舎の村道、遠くからトラクターの稼働音が風に運ばれてくるだけで誰も小僧を見る者などいないのに。厳重警戒しながら小僧はついに、ひと気のない場所に雑誌を見事蹴り運ぶと、食い入るようにボロボロの誌面を見た。頭に血が上っていくのが分かる。しかし緊張と、なぜか罪悪感が襲ってきて、5分と見ていられない。小僧は秘密の隠し場所を離れると、翌日からそこへ通いだした。雨風が雑誌を土に還すまで――。

小僧は、昔の私です。野良犬がまだまだうろついていた昭和末期の田舎道に時折突如現れる大人の雑誌は、ダンジョンに隠された宝箱を見つけた気持ちでした。田舎育ちの、一定の年齢のおじさんたちなら分かってくれるあの尋常でない歓喜と執着心。見るチャンスが来ないか、いつも心待ちにしていました。

夜中に大人の自販機コーナーへ向かったら……

あるときは、近所の悪ガキたちに誘われ、廃車置き場へ通ったこともあります。車だけでなく家電も山のように積んである場所がありました。私を含むガキ共の隠れ家です。その奥に古びた2ドアの冷蔵庫があり、冷凍室を開けると、はたしてそこには大人の雑誌が隠してありました。ドアを開けた瞬間の人生が突然バラ色に染まる感覚、宝を見せてくれた悪ガキの勝ち誇った顔、忘れられるものではありません。

またあるときは、友達の家で。彼は自分の兄の部屋から数冊、大人の雑誌をもってきてくれたのです。お兄ちゃんが帰宅するまでの1時間むさぼり読み、「遊艶地」なる素晴らしい表現を体得しました。園を艶と書くなんて! いつか使ってみたいと思いながら今日を迎えております。

少し大きくなり、友達と真夜中に待ち合わせをしたことがあります。原付で10分ほどのところに、自販機コーナーがあったのです。レトロさで今ふたたび注目されている、そばやハンバーガーの自販機が並ぶコーナーです。その横に、目隠しの壁で奥を見えないようにした、大人の自販機コーナーもありました。深夜1時頃、家族が寝静まったあと友達と現地に到着。早速吟味開始!……と思った瞬間遠くから聞こえてくる単車の爆音。駐車場が広いので、暴走族の集合場所となっていたのです。あれよという間に爆音はいくつも重なってすぐ近くまで響いてきました。焦った私と友は、原付を木陰に放り出し、自販機コーナー裏手の畑に飛び込みました。足を泥だらけにして戦果ゼロで帰宅したあの夜の無念、生涯忘れることはありません。

少しずつしか進めない、あの感じも悪くない

それでも今考えれば、会えそうで会えない、会えてもちょっとだけだった大人の雑誌との出会い方は、悪くなかったかなという気がします。紙は千切れ、ページは抜け、雨に濡れ文字のにじむバサバサの雑誌との不意打ちの出会い。初見の単語は0.2秒で脳裏に永久に刻み付けられ、マセた同級生や先輩、辞書にその意味を少しずつ教わっていきました。今なら一つの単語を知って、ネット検索にかければ山のような情報、どこまでも過激な表現を浴びられるでしょうが、ほんの少しずつしか前に進めない感じ、あれは少しずつ大人になる昭和の少年にとっては、悪くなかったなと思うのです。

今帰省してあぜ道を散歩しても、野良犬もいません。ぱたぱたぱたとはためいていた大人の雑誌よ、ありがとう、さようなら。

文=フリート横田