マンガ家たちが夢を追った場所、だから未来に残したかった
今回は、街の歴史に詳しく、自身もトキワ荘協働プロジェクト協議会副会長としてまちおこしの一翼を担ってきた小出幹雄さんにお話を伺った。現在トキワ荘通りと呼ばれているこの一帯の歴史を聞くところからスタートする。
「もともとこのトキワ荘通りは旧目白通り、江戸川橋から清瀬に通じる清戸道という街道だったんです。ここから歩いて20分くらいの場所に目白駅があります。山手線のなかでも『ルーツ駅』といわれる駅の1つですが、この清戸道が通っていたのであそこに駅ができたんですよ。今もこのあたりには、業態こそ変わったものの大正時代から商売をやっているという家も残っている。本当に古くから商店街があったということですね」
目白駅の開業は明治18年(1885)。先にできていた品川~赤羽間をつなぐ駅として板橋、新宿、渋谷、目黒とともにできた駅ということを考えるとこの南長崎近辺が交通の要衝として栄えていたことがうかがえる。練馬方面から都心に抜ける多くの人に利用されていたようだ。小出さんはこのように続ける。
「一番街が栄えたのは昭和20年代から30年代頃だと思いますね。まさにトキワ荘ができた頃は一番賑わっていたのだと思います。トキワ荘に住んでらっしゃった水野英子先生に以前お話を伺ったところ『キラキラしていた』とおっしゃっていました」。なるほど田舎から出てきた若者には都会がキラキラして見えたのか……かと思いきや、実際にこの街はキラキラしていたという。
「昭和20年代にはネオン祭というお祭りがありました。ネオンの看板を出している店も多くて、本当に物理的にキラキラしていたんです。昭和26年(1951)には東長崎音頭なんてものもできたそうですよ。戦後マーケットがあったからこのあたりはとても賑わっていたんです。練馬の人が買い物に来て、店が多いし安いと羨ましがられたという話も、昔の人から聞いています。また、大相撲を巡業で呼んだこともありました。相当お金がかかったと思いますが、それだけたくさん店があったということです」
と小出さん。1959年、『週刊少年マガジン』創刊号の表紙は大関、朝潮太郎だった。そんな国民的スターの朝潮までこの街にやって来たというから驚きだ。藤子不二雄Ⓐ、藤子・F・不二雄が『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』の創刊時に両方から依頼をもらったというエピソードが残っているが、まさにその頃、南長崎という街も絶頂期を迎えていたのかもしれない。トキワ荘住人の多くは地方出身。若者たちが目にした東京の街はさぞ煌びやかだったろう。しかもネオンがまたたいていたのだから、水野先生の「キラキラしていた」という言葉にはなるほどジーンとさせられる。
銭湯と喫茶店がたくさんあった、木賃ベルトの代表地帯
小出さんはまた、このエリアの特徴をこのように話してくれた。
「山手線の西の端から環状7号線あたりまでは木賃ベルト地域と呼ばれていたんです。木造の風呂無し賃貸アパートがたくさんあった。そういう古くからのアパートは今もたくさん現存しています」
なるほど、そこでピンときて思わず興奮してしまった。実は、筆者は大学入学を機に上京した2003年から8年間、この南長崎近辺に住んでいたのだ。最初の4年間は落合南長崎駅から徒歩2分のアパート。四畳半もない狭さで家賃も安く、4万9000円だった。その後の4年間は『トキワ荘マンガミュージアム』から徒歩30秒の場所にあった喫茶店が大家で、アパートというよりは間借りと言ったほうが近いような「○○様方」の家に住んだ。さらに家賃は安くなり、10畳風呂無しで3万7500円だった。古めかしい味のある外観だったから、何年も乗りつぶした赤い自転車を停めるとなんとも言えない昭和感が出たことを覚えている。そう、このあたりは今も昔も若者たちが暮らすにはもってこいのエリア。家賃も安く都心にも近い住みやすい場所なのだ。
「昔は南長崎だけで銭湯が5、6軒あったのですがそれが全てなくなってしまいました。昔の雰囲気は残していきたいですよね。なので、味楽百貨店の建物が『昭和レトロ館』となったのは本当に良かったと思います」
小出さんはさらにこう続ける。「そしてこのあたりには喫茶店もたくさんありました。トキワ荘の住人たちがよく足を運んだという『エデン』が有名ですが、それ以外にもたくさん喫茶店があったんです。石ノ森先生はよく近所の喫茶店でネームを書いていたそうですよ」
ほかにも『まんが道』にもその名が登場するパン・洋菓子店「片山菊香堂」など多くの店があり、トキワ荘の周辺は実に賑やか、歩くのも楽しい街だったことがうかがい知れる。
トキワ荘の伝説は偶然ではなく、必然的に生まれた聖地
また、この街の「アクセス」の良さも大きな魅力だったといえるだろう。練馬が近く都心へも行きやすいため、マンガ家たちが仕事をする場所として最適だった。
「練馬には馬場のぼる、福井英一、島田啓三といった有名マンガ家たちが住んでいました。そういった要因も重なり、西武池袋線沿線は古くからマンガ家の密集地帯になったといえるでしょうね。また、目白駅も近いしその先には音羽、つまり講談社もあって行きやすかった。講談社の編集者もこのあたりに住んでいた人が多いようですね。会社からタクシーで帰れる距離ということで。今でも編集者っぽい方をよく目にしますよ。そして、このあたりはバス文化が発達している地域なのも大きかったでしょう。大正時代からバスが通っていました。『椎名町四丁目』というバス停から新宿や目白に行けたんです。マンガ家たちもそのバス停を起点に動いていたようです」
トキワ荘からバス停までは徒歩3分ほど、マンガ家たちはバスもうまく活用し、出版社など都心に向かっていた。今は「南長崎二丁目」と名前こそ変わったが同じ場所にバス停がある。『まんが道』でもバスに乗る場面が描かれていたが、満賀道雄や才野茂たちが行き来した道のりを今なお体感できるとは、マンガ好きにはたまらない!
飲食店も多く、買い物スポットも充実。マンガ家たちも近くに住んでいるうえ、交通網も文句なし!なるほど忙しいマンガ家にとって、南長崎は住居として最高のエリアだった。偶然マンガ家の聖地になったのではなく、エリア性や時代のうねりが生んだ奇跡とも言えるだろう。街の引力が若きマンガ家たちを惹きつけ、運命的にマンガの聖地が形成されていったのだ。
「トキワ荘に住んだ方以外にも、以後もトキワ荘への憧れからかマンガ家がたくさん住んでいました。マンガ家先生たちの逸話が残るお店もこのあたりには多いんですよ」と小出さん。トキワ荘がなくなってからも、若者たちを引き寄せる不思議な引力がこの街には確かにあったようだ。平成になってからはライフスタイルの変化が進み、銭湯も姿を消し、木賃アパートも少なくなってきた。それでも、マンガの聖地としての街の記憶は今後も語り継がれるし多くの人の胸に残るに違いない。『トキワ荘マンガミュージアム』の前、つまり筆者が昔住んでいたあたりをぼんやり歩いていると目の前を赤い自転車が颯爽と駆けていった。遠くなっていく背中に学生時代の自分を重ねながら、そして昭和の賑わったこの街の商店街に想いを馳せて、僕はもう一度ゆっくりとトキワ荘通りを歩いてみることにした。
『ふるいちトキワ荘通り店』
・東京都豊島区南長崎3-9-21
・TEL:03-3951-4560
・営業時間:11:00~18:00(土・日・祝は10:00~)
・定休日:月(祝の場合は翌)
文・撮影=半澤則吉
※石ノ森章太郎の「ノ」は正式には55%縮小で表記。