樋口毅宏(達人)の記事一覧

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「山下達郎のことなんかどうでもいい」と思っていた僕が、 「世界最高のアーティストは山下達郎」と考えを改めるまで。
山下達郎なんて別に好きじゃなかった。初めて意識したのは「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマ曲「土曜日の恋人」だった。その曲が収録されたアルバム『POCKET MUSIC』がリリースされると同時に、レンタルレコードショップ「友&愛」巣鴨店で借りて聴いてみた。「うーん、それほど……」と思った。僕はアホな中学3年生だった。その後も思春期に、勉強のつもりで達郎の過去作を幾つか聴いたが、やはりハマることはなかった。もっと世代が近い代弁者を求めていたのだと思う。それに渋谷陽一が提唱する「ロックミュージック進化論」にかぶれていたので、山下達郎だけでなく、ポップソングのミュージシャンを「退屈なポップ職人」と見下していた。やっぱり僕はアホだった。それでも縁のようなものを達郎に感じていた。出身が自分と同じ池袋。デビューバンドのシュガーベイブが、自宅から歩いて1分の『シアターグリーン』でライブをやっていた(ここは寺の一角にある小屋で、若者文化に理解のある住職が建てた)。コサキンのTBSラジオでリスナーから送られてきたハガキが読まれる。山下達郎を「歌う心霊写真」と喩えて、深夜に爆笑した。それから30年近い歳月が流れた。「山下達郎のライブに行かない?」妻に誘われた。達郎のライブチケットが毎回争奪戦なことは当然知っていた。達郎は二、三千人規模のホールでしかやらないことはつとに有名だ。 東京だと『中野サンプラザ』か『NHKホール』で4日間ぐらいのみ。むかし達郎の声の調子が悪く、急遽中止になった際、熱狂的なファンが会場玄関の窓ガラスを割ったというスポーツ新聞の記事を覚えている。妻が言うには、彼女は自分が所属する『松竹芸能』のエラい人のおかげで、これまで2回観ているという。「たけちゃんのためになるから、“本物”を観てほしい」2017年8月7日、『ふくやま芸術文化ホール』のチケットが買えた。そこから車で20分ほどの妻の実家に子供は預けた。駅からタクシーで同乗した御夫婦の女性は達郎と同世代で長年のファン。「このツアーは4本行くんです。日本中追いかける」とうれしそうだった。ライブは「ポケット・ミュージック」のアカペラ・コーラスからスタート。ミスドの「ドーナツ・ソング」、「風の回廊」、トム・ジョーンズのカバー「It’s Not Unusual」(「よくあることさ」)、「クリスマス・イブ」、「高気圧ガール」、マッチに提供した「ハイティーン・ブギ」、「RIDE ON TIME」、シュガーベイブの「DOWN TOWN」。ヒット曲、代表曲、カバー、耳なじみのある曲ばかりで飽きない。何よりむちゃくちゃ歌がうまい。演奏も上質で完璧。噺家 のようなMCが楽しい。あまりにも時間が早く流れたので、2時間半ぐらいやったかな? と思っていたら、3時間半が経過していた。妻が晴れ晴れとした笑顔で感想を聞いてきたので答えた。「最高だった。最高すぎだ。人生でいちばんかもしれない」中学生のときに「ロッキング・オン・ジャパン」で、先日物故した松村雄策のライブレビューに「歌詞が聴き取れる。MCが落語のようで面白い」(大意)と書いていたことを思い出した。その通りだった。例えば「GET BACK IN LOVE AGAIN もう一度僕を信じて 想い出にしたくない あなたを取り戻したい」という歌詞。少し考えなくてもこの男がクソ野郎なのは自明だ(ネットには「山下達郎の浮気がバレて竹内まりやに許しを乞うため書いた曲」という書き込みがあって笑った)。しかし達郎が歌うとあまりにエモくて歌がうますぎて、アウトなものがインに変わってしまう。すげえわ。プロフェッショナルな力技による魔術だ。味をしめた僕は2019年6月30日、広島『上野学園ホール』に出向いた。そしてこの日、言葉にならない超絶なるものを目撃した。MCで達郎は、年を取り、身近な人が次々と亡くなっていると彼らを悼んだ。そして最大の恩人である大瀧詠一の名を挙げた。「亡くなった直後はコメントをすべてお断りしてきました。それに私は大瀧さんを信奉する“ナイアガラー”と呼ばれる人たちが嫌いです。しかし大瀧さんが鬼籍に入って七回忌。そろそろ語ってもいいだろうと思いました。最近知ったのですが私のルーツは岩手にあるようです。はっぴいえんどの解散コンサートで楽屋に行くと、細野晴臣さんが私の顔を見てから大瀧さんに、“おまえ、弟いたのか”と言いました(*注・大瀧詠一は岩手出身)。私はすっかり失念していましたが、大瀧さんとカラオケに行ったとき、“この歌おまえにやるよ”と言ってくださったそうです」ドリーミングなイントロが鳴り響く。「君は天然色」だった。夢のような5分間の後、達郎は先ほどより語気を荒らげて宣言した。“自分が大瀧詠一を歌い継ぐ。自分だけがその資格があると思ってる”もう、あたまのフタが吹っ飛ぶかと思いましたよ。挙げ句この後は竹内まりやメドレーから、世界中を席巻するシティポップの代表曲「プラスティック・ラブ」まで披露。キンキの「硝子の少年」までやった。完全に致死量。死ななかったのが奇跡。
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とんねるずが好きだったことを、どうしてみんな隠そうとするのか?
とんねるずって知ってますか? むかしすごい人気があったんですよ。あれは僕が中学生の頃だった。石橋貴明と木梨憲武。学校でいちばん面白い奴らが、テレビに気後れすることもなく、そのまま飛び出してきたみたいな感じだった。お笑いスタ誕で勝ち抜いて、「一気!」を歌う頃から、文字通り一気にスターの階段を駆け上がっていった。『オールナイトフジ』、『夕やけニャンニャン』、『オールナイトニッポン』、『ねるとん紅鯨団』、『みなさんのおかげです』、「仮面ノリダー」、『生でダラダラいかせて!!』、『みなさんのおかげでした』、「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」。歌だと「青年の主張」、「雨の西麻布」、「やぶさかでない」、「嵐のマッチョマン」、「迷惑でしょうが…」、「情けねえ」、「ガラガラヘビがやってくる」(150万枚)、工藤静香とのデュエット、番組の裏方スタッフで構成したグループ野猿。ドラマは『お坊っチャマにはわかるまい!』、『時間ですよ』シリーズ。映画は森田芳光監督の『そろばんずく』(本作で木梨と安田成美が出会って結婚)。石橋がハリウッド映画『メジャーリーグ2』に出演なんてのもあった。テレビ、ラジオ、歌、映画など、縦横無尽にふたりは暴れまくった。石橋はテレビカメラを壊し、年上のタレントを「おまえ」呼ばわりし、「母子家庭で悪かったな!」など、暴言を吐いてハプニングを招いた。傍若無人。天衣無縫。痛快無比。それまでのお笑い芸人と一線を画すカッコよさだった。僕たちは共感した。クラスの男子は自伝『天狗のホルマリン漬け』を回し読みした。そこには童貞喪失のことや、むかし好きだった女性の実名が記されていた。とんねるずが新しかったことのひとつとして、体育会系のお笑いを前面に押し出したことが挙げられる。石橋は野球部で木梨はサッカー部。おまけにふたりとも背が高い。ふたりが卒業した帝京高校の知名度も上がった。「生ダラPK対決」や『スポーツ王は俺だ!』など、随所に身体能力の高さを見せつけた。そしてもうひとつ、業界ネタ、内輪ウケがあった。石田プロデューサーのモノマネで、本人のことを知らないのに腹を抱えて笑った。あれは『いいとも!』『ひょうきん族』で一時代以上のものを作った横澤彪(たけし)プロデューサーへの対抗だった。ブレイクした後出演した新春かくし芸大会で「3年前はペンギンでした!」発言。『オールナイトフジ』の生放送で野坂昭如にぶん殴られた。『みなさんのおかげです』のチェッカーズ、アルフィー、宮沢りえとのふざけきったコント。井上陽水がハリセンで頭を叩かれた。緊急特番、木梨憲武死去。田村正和、宜保愛子のパロディ。紅白歌合戦で赤と白のボディペインティングで出演し、ラストでふたりが背中を向けると「受信料を払おう」の文字。石橋貴明が鈴木保奈美との再婚。「ご飯屋さんで出会ったのが馴れ初めって言うけど、鈴木保奈美が通うご飯屋さんってどこだよ!」と会見を見ながらツッこんだ。「いいとも!」晩期、野猿で出演すると石橋がタモリに「やる気がないなら俺にふた曜日寄こせ!」発言などなど。とめどなく溢れてくる、テレビで観たとんねるずのエピソード。50代以下の人ならみんなあるはずだ。バックには秋元康がいた。今でこそ超大物アイドルプロデューサーであり、大作詞家に上り詰めた秋元だが、同時代の目撃者からすると、とんねるずのおかげで(ルックス的にも業界の実力者としても)肥えていった印象がある。
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ザ・ストリート・スライダーズ 解散23回忌~2000年10月29日、日本のローリング・ストーンズが終わった~
中学生のとき、テレビの深夜番組で「Back To Back」のMVを観て、初めてザ・ストリート・スライダーズの存在を知った。サウンドはそれまでの荒削りなものから、佐久間正英プロデュースにより洗練された仕上がりになった。バンドは5枚目のアルバム『天使たち』をリリースして上り調子にあった。スライダーズの音楽をものすごくわかりやすく一言で例えると、「日本版ローリング・ストーンズ」。ブルースを基調とした「ロックの王道」と呼べるものを80年代の日本で展開していた。スタンディングホールもフェスもない時代に、どれだけ特異なことをやっていたか、わかってもらえるだろうか。僕はスライダーズに引き込まれていった。特に好きな曲は「のら犬にさえなれない」。最後のコインは 何に使うのさ最後のコインで 何が買えるのさ遊びすぎた夜はいつも 誰かを想ってるBaby,のら犬にさえなれないぜ(中略)空は晴れてるのに 雨が降ってるのさBaby,baby教えてくれ こんなことってあるのかい?疲れたシャツ着て 通りをぶらついて人混みの中で 水たまり飛びこして誰もいない夜はそうさ 寝ぐらへ帰るだけBaby,のら犬にさえなれないぜどうですか、「疲れたシャツ着て」ですよ? 文学性の高い歌詞。ボーカルの‶ハリー”こと村越弘明が初めて作った曲だそうです。天才すぎるでしょ。
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昭和50年代、小学生男子はみんな切手を集めていた
いまだと男女問わず保育園児幼稚園児小学生が大きくなったら人気YouTuberになりたいように、僕が子どもだった昭和50年代、男の子はみんなプロ野球選手に憧れた。そしてこれまたひとりの例外もなく男子は切手をコレクションしていた。「趣味は何ですか?」と聞かれて、「切手集めです」と100 人中100人が答えていた。本当に。大袈裟な話でなく。30以下には信じられないでしょう。家にテレビゲームがやってくる前後の時代だ。お年玉付き年賀はがきで下2桁が当たると、その年の干支の絵の切手シートがもらえた。小学生男子はそれを大事にストックブックに挟んだ。もちろん指紋が付かないようにピンセットを使って。池袋西武デパートの8階に切手売り場があって、いちばん安い切手が40円で買えた。元の値段は10円とかそれ以下。少ないこづかいでちまちまと買い求めた。何が価値があるとか今後値上がりしそうとか、不純な投資の気持ちは子どもにない。なんとなく、好きな感じで集めた。そうだ、親戚のお兄さんも切手を収集していて、山手線に乗って鶯谷(シブい)まで古切手の店に連れて行ってくれたことがある。池袋より右側の駅に行ったのはあれが初めてだったのではないか。詳しくは思い出せないけど、小さな店はマニアの雰囲気があったはず。あそこからずぶずぶと深みに嵌まらなかったのは、才能がなかったからだろう。友達でおじいちゃんが「見返り美人」「月に雁」を持っている奴はエラそうにしていた。見せびらかして自慢した。うちのおじいちゃんは「高い切手をいっぱい持っている。売ったら家が買えるぐらいだ。ワシが死んだら全部あげるよ」と言っていた。見せてもらった。仏壇の下の鍵付きの引き出しから出てきたものはどれも使用済みのもので、一袋500円と記されていた。明治生まれの寡黙な錠前師、鈴木文次郎。当時の国会議事の鍵も手がけた祖父のたったひとつの大言壮語。おじいちゃん、あなたが亡くなった後、あの切手はどこに行ったのでしょうか。
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番組終了から8年……ああ忘れまじ、『 笑っていいとも!』脳内傑作選
ふと思い出したんですけど『笑っていいとも!』が終了して今年で8年になるんですね。時の流れは速い。今から僕の記憶の中から『いいとも!』傑作選をお蔵出ししていきます。すっかり忘却されて誰もネットには記していないでしょう。ひょっとしたら僕の記憶違いかもしれない。でもどうか好意的に受け止めて下さい。これはテレビが大好きだった(過去完了形)元男の子によるメモリー開陳です。それではランダムにしたためていきます。 「テレフォンショッキング」ってあったじゃないですか?  ゲストがお友達に電話をかけて翌日の同トークコーナーに出演してもらう。あれって途中から番宣とかパブメインで使われていきますけど、そのきっかけとなった番組は何か覚えていますか? もったいぶらずに答えを言います。『ふぞろいの林檎たちII』なんですよ。そう、TBSのドラマ。あれで中井貴一、時任三郎、石原真理子、手塚理美といったメインどころが週をまたいであのコーナーを活用したんです。よく覚えているのが、タモリが石原か手塚に「いつ最終回なの?」と訊いて、「来週です(再来週だったかな)」と答えると、客席からやらせではない「えーっ!」って声が上がりました。『いいとも!』の観覧客=一般人は自分が気になるドラマがいつ最終回か知らないのがわりと当たり前でした。今みたいにネットで検索できないし。大方の視聴者も、えっ、『ふぞろいII』そろそろ終わっちゃうんだ⁉︎ って同じ気持ちだったんです。誰が仕掛けたのかは謎ですが、『ふぞろい』キャストによるテレフォンショッキングジャックは予想以上の反響を招きます。その証拠に全13回中、11回目の視聴率が17.5%だったのに、12回目は20.4%。最終回は20.0%。見事に有終の美を飾りました。今調べたら『ふぞろいII』の最終回は1985年の6月7日。ようやく家庭にVTRが導入されつつあったとはいえ見逃したら終わりの時代。もちろん『ふぞろい』以前、フジテレビの番宣のためにゲスト出演したケースもあったでしょうが、あそこまでひとつの番組の出演者が連続して登場し、数字に結び付く活用の仕方をしたことはそれまではなかった。フジテレビの誰よりも、他局のスタッフのほうが「いいともは番宣に使えるぞ」と見抜いていた。そして『ふぞろい』の後、ようやくフジテレビも『いいとも!』の影響力を認識します。テレフォンショッキング以外のコーナーにも番宣ゲストを登場させるなどして。一方、テレフォンショッキングの間違った使い方と言えばA・Y。女性週刊誌に表紙からデカデカと「真っ昼間男の家に行って髪型が変わって出てきた」と書かれた。いくら週刊誌が売れている時代とはいえ、世間のほとんどがそんなことは知らない。なのにAさん、当該週刊誌を取り出して「噓ばっかり!」と反論した。しかしこれが逆宣伝となり、売り上げ急増に貢献してしまったそうです。
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8月6日が来るたびに思い出す。 浜田省吾と名盤『J.BOY』。 ハマショーはなぜ怒っていたのか。
1986年――。それは日本のミュージシャンのアルバム当たり年だった。3月、BOØWYの『JUST A HERO』。4月、山下達郎の『POCKET MUSIC』。6月、松田聖子自身最大のセールスを記録する『SUPREME』。7月、渡辺美里が大ブレイクする2枚組『Lovin’ you』と、KUWATA BAND唯一のオリジナルアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』。10月、バービーボーイズの『3rd BREAK』。11月、大江千里の『AVEC』と、BOØWYの『BEAT EMOTION』。12月、オフコースに在籍しながら小田和正のファーストソロアルバム『K.ODA』と、佐野元春の『Café Bohemia』。何これ。書き連ねていくうち怖くなってきた。大半がオリコン1位。全部持ってた。1986年は世代も性別も音楽性も異なるミュージシャンがキャリア最高傑作と呼ぶにふさわしいアルバムが発表された。そしてその中でも9月に発売された、浜田省吾の『J.BOY』は圧巻だった。オリジナルアルバム2枚組。当時33歳の浜省が半生を振り返り、余すところなくすべてを詰め込んだ集大成が『J.BOY』だった。メッセージ性の強い歌詞で綴られる、珠玉の物語集。これは読んでもらわないとわからないので「AMERICA」、「八月の歌」、「J.BOY」の歌詞を見てください。
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『ドラゴンボール』はどうして永遠の名作にならなかったのか
挑発的なタイトルになりました。でもそうじゃないですか?『ドラゴンボール』を週刊少年ジャンプ連載時、最終回まで読んだ人ってどれぐらいいます? 『ドラゴンボール』は1984年の終わり、週刊少年ジャンプで連載スタートした。作者の鳥山明は前作『Dr.スランプ』で社会現象レベルのヒットを飛ばしていたため、集英社の大きな期待とプレッシャーの中の船出だった。どんな願いも叶えてくれるという7つのドラゴンボールを集めようと、主人公の孫悟空が世界中を冒険する当初のコンセプトは、天下一武道大会で大きく道筋が変わる。悟空が天下一武道大会でピッコロ(息子)に勝った後、ベジータたちとの戦いでこのマンガは最大のピークを迎える。次のフリーザとの対決も盛り上がるが、黄金時代はここで終わり。未来からやってきたトランクスとセル編の途中から離れていった人は多いのではなかろうか。魔人ブウ編に至っては「ドラゴンボールってまだやってるのか」と思われていたのでは。ジャンプは「努力・友情・勝利」をキーフレーズ(さすがにもう古すぎて現代では通用しないと思う)に、特に『リングにかけろ』『キン肉マン』『北斗の拳』など、バトル系マンガ誌として部数を飛躍的に伸ばしていった。鳥山明もジャンプのこの王道路線を継承した。『ドラゴンボール』が、5年早く先に連載していた『キン肉マン』の影響をモロに受けていたことを指摘したい。この2作には類似点が多い。『キン肉マン』もやはり最強を決める大会である超人オリンピックの後、バッファローマン率いる悪魔超人が登場。ここから次の悪魔将軍までがクライマックス。バッファローマンが自らを1000万パワーと名乗ることで初めてキャラクターの強さを数値で表すようになった。『ドラゴンボール』に数値が登場したのもやはり天下一武道大会後のベジータ編だった。数値で強さを表現すれば、絵の描写で説得力を出そうとはしなくなる。読者は一時的には支持するものの、数字に頼るようになった作り手は次第に蝕むしばまれていく。(もうひとつの共通点。それまでのバトルと段違いのレベルになった途端、ギャグ風味は一掃され、シリアスさが強調される。レギュラーだった和み系の脇キャラが消えた。『キン肉マン』だとキン骨マン、イワオ、マリ、カツラの中野さん。『ドラゴンボール』だとウミガメ、ウーロン、ランチなど)。それでも『キン肉マン』は夢の超人タッグ編、キン肉王位争奪編と、ボルテージが下がることなく完走した。最終回のラストシーンも見事なものだった。しかし『ドラゴンボール』の最晩年は目を覆うものだった。鳥山明は重量級の特急列車から降りられなくなってしまった。終盤のやる気のなさは誰の目にも明らかで、敵味方問わずキャラクターのインフレ化は著しく、慢性的なワンパターン地獄に陥っていた。仕方がなかった。『ドラゴンボール』が連載終了してもジャンプの売り上げを維持できるほどのヒット作が生まれていなかった。『遊☆戯☆王』と『ONE PIECE』と『NARUTO』が現れるのはもう少し先のことだ。   
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引っ越し人生70年、吉祥寺に戻った四方田犬彦。ここは終の住処になるか
かつての本誌の名物連載「四方田犬彦の引っ越し人生」の四方田犬彦さんが、青春を過ごした吉祥寺に戻ってきた。今と昔の吉祥寺と普段の生活は、どんなものか。お話を伺うのは、現在の『散歩の達人』名物連載「失われた東京を求めて」の樋口毅宏さんだ!
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町の良心~こういう店の常連でありたい~
東京に戻ってきて1年が経ちました。今回は僕がおすすめする東京のお店をご紹介します。*『散歩の達人』2019年1月号より。お店やメニューの情報は掲載時のものです。 ①ほていや (三軒茶屋)東京の何がいいかってお蕎麦が美味しいことです。町に長年根付いたお蕎麦屋さんはどこも安定の美味さでホッとします。そんな中でもいちばん好きなお蕎麦屋はこちら、ほていやさん。結婚する前、三宿に3年間住んで、いちばん足を運んだお店。料理が美味しいだけでなく、お店の雰囲気がとても良いのです。卑屈ではない愛想の良さ。ご家族のみなさんがあまりに優しいので、「ひょっとして宗教に勧誘されるのでは」と勘ぐってしまったほどです(ごめんなさい。47年間生きてきて、人に優しくされたことがないのです)。何を食べても驚異的に美味しいのですが、おすすめはカツ丼ともり蕎麦のセット。夜に行くときは天ぷら盛り合わせは必ず頼みます。蕎麦湯割りは危険です。飲みやすくてぐいぐいイッちゃいます。僕のような汚れた心の人間をいつでも温かく迎えてくれる。欠点がないのが欠点のお店です。
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中高生の頃、死ぬほど聴いていたアルバムを聴き直してみました
最近(注:2018年)はヒップホップばかり聴いている。そして反動なのか、10代の頃に聴いていたアルバムを引っ張り出している。懐かしかったり、あまりの音の古さに驚愕したり、よくこんな文学的とはほど遠い、幼稚な歌詞の歌を聴いていたなとしみじみしたり。中島みゆきや泉谷しげるも入れようかと思ったのですが、このふたりに限って30年間ご無沙汰ということはありえませんでした。というわけで、我ながら恥ずかしい企画だなと思いますが、いってみますか。
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