今回の“会いに行きたい!”
『信州別所温泉 旅宿 上松や』会長の倉沢 章さん
赤い甲冑姿で挨拶する「兜でござるさん」サービス
「真田幸村でござる。ようこそ、いらっしゃいました」
『信州別所温泉 旅宿 上松や』の会長・倉沢章さんは、“赤備え”の衣装に身を包み、夕食時に挨拶をする。赤備えとは鎧や兜をはじめ、あらゆる武具を赤に統一すること。
上田に本拠を置いた戦国武将・真田幸村(信繁)は大坂冬の陣・夏の陣で、武田信玄の赤備えを継承し、“日本一の兵(つわもの)”と称される勇猛さで戦った。「どんなに敵に攻め込まれ、負けるとわかっていても立ち向かい、親子で頑張った。その姿にとても勇気づけられます」と章さん。幸村の姿で、お客さんと歴史談議に花を咲かせ、記念撮影をする。
「地元の名士・真田幸村を有名にしたい」という思いがあり、もともとは団体客の宴会の際に、先代が真田十勇士の猿飛佐助に、お客さんには幸村役に扮してもらって記念撮影をしていた。
章さんが挨拶回りを始めたのは、2016年に大河ドラマ『真田丸』が放送された時で、以来10年近く休まず継続。子ども客からもらった、感謝の手紙に書かれていた「兜でござるさん」サービスという名称を、そのまま使っている。
『上松や』は「一人旅の宿」の先がけとしても知られる。いまでこそ一人旅を受け入れる宿は増えたが、30年ほど前までは、湯治宿を除く観光旅館では「そんなことをしても儲からない」という反応が大多数だった。「一人で泊まる女性は自殺するかもしれない」といった偏見も強かった。
章さんはプライベートでよく一人旅に出かけ、39歳と47歳の時には、それぞれ1カ月間、イギリスの温泉事情を視察しに出かけている。この一人旅では列車で移動し、バーやシアターに入り、温泉浴を楽しみ、時にホテルオーナーと話し込んだ。
「外国では宿が一人客を受けるのは当たり前。別所温泉もむかしは行商人が一人で泊まりに来ていた。繁盛しているからといって一人客を断るのは、旅館の本分に反するのではないか」と感じるようになった。
「自由気ままに、一人で旅することでしか感じられない町の景色や人との出会い、酒場の楽しさがある。この素晴らしい旅行スタイルを広めていきたい」という思いを強くした。
宿としてのネックは宿泊人数の減少による売上の縮小だが、「32室を一人旅で満室にすれば経営はなり立つ。やれないことはない」と考えた。
親子のバトンリレーによって「一人旅」を定着させた
章さんは「一番」が好きだったことから、数字の語呂合わせで「1万円・午後1時チェックイン・午前11時チェックアウト」の一人旅プランを作った。しかし当初は、女将やスタッフからは否定的な声が上がった。多くの宿にとって、一人客は「単価の低い、いらない客」と見なされた時代だったのだ。
一人客がゼロの日があっても、章さんは諦めずにプランを続けた。やがて1997年に「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」の「ひとり旅部門」で受賞トロフィーを手にし、『JR時刻表』にも「一人旅歓迎の宿」として掲載されるなど、徐々にその取り組みが認められる。風向きは、確かに変わった。
いまでは、宿泊客のうち約3分の1が一人旅のお客さん。なかでも人気なのが、『真田丸』の放送に合わせて作られた2室のコンセプトルーム「真田戦国部屋」。別所温泉は幸村が訪れたと伝わる土地でもある。
ほの暗い明かりに照らされた客室の入口には、陣幕のような白い幕が張られ、まるで戦国時代の本陣に迷い込んだかのような趣がある。
壁紙やベッドライナーは“赤備え”を思わせる赤で統一され、真田家の家紋「六文銭」の提灯が揺れる。赤い兜が飾られ、掛け軸には真田家が代々崇敬してきた山家(やまが)神社の宮司による、守護神「白山(はくさん)大権現」の書が掲げられている。
このコンセプトルームは、章さんの息子・晴之介さんのアイデアから生まれた。彼はイギリスの大学を卒業後、2010年に宿に戻り、現在は社長を務めている。
「もし息子が『一人旅はやらない』と言っていたら、やめざるを得なかったでしょう。でも『一人旅』も『真田』も、『上松や』の大事な核だと考えてくれた。息子の力が加わって、30年かけてようやく芽吹いたのです」
大規模な旅館こそが理想的だと思っていたが……
章さんの自宅は宿の中にある。宿を離れていたのは、大学時代の4年間と、熱海の宿で修業していた4年間だけ。宿で生まれ育ち、人生のほとんどを宿、温泉、お客さんのことを考えて過ごしてきた。
「改装で大浴場を造った時、最新の循環装置を入れたんです。でも実際に浸かると、なんとなく肌ざわりがよくない。結局それはやめて、源泉かけ流しにこだわっています」
脱衣所の2階には、裸でくつろげる休憩室がある。これは、温泉保養地として知られるドイツ・シュヴァルツヴァルト地方のフロイデンシュタットで、太陽の光を浴びながら裸でゴロゴロとくつろぐ人々の姿にインスピレーションを受けて設けた。コンセプトは“心の自由劇場”だ。
章さん自身の健康の秘訣も温泉だそう。毎朝6時に入り、静かに一日を始める。湯船でお客さんと言葉を交わすことは少ないが、その雰囲気や表情から、お湯に満足してくれていることが伝わってくるという。
かつては、大規模な旅館こそが理想的だと思っていたが、「大きいばかりが能じゃない」と気づいた。イギリスやドイツなどの保養地へ赴き、旅のマーケットやサービスのトレンドを探り、『上松や』のサービスに余すところなく反映してきた。
いまでは、「地域でもトップレベルのサービスを提供できている」と自負している。『真田丸』の放送からしばらくして、章さんは夢を見た。夢の中に真田幸村が現れ、こう語りかけてきたという。「その姿でお客さんにお礼をしなさい。それを続ければ、30年は大丈夫だろう」
あの夢から、10年が経った。どんなに敵に攻め込まれても屈しなかった真田親子の姿に、自らと息子の歩みを重ねる。「あと20年、95歳まで、挨拶を続けます」
そう語る章さんの表情は穏やかでありながら、言葉には揺るぎない決意がにじんでいた。
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取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年5月号より








