城郭カメラマン 岡 泰行(おか やすゆき)
全日本写真連盟・朝日新聞社主催「全日本お城写真コンテスト」審査委員長。先人たちの知恵とおしゃれ心をテーマに、写真をとおして日本の城の魅力を探る。
《日本100名城》毛利攻めの拠点に秀吉が天守を築いた「姫路城」【兵庫県姫路市】
国宝でありユネスコ世界文化遺産。14世紀半ばに赤松氏が姫山に築いた砦に始まり、永禄4年(1561)までに黒田官兵衛の祖父・父が城を建てた。播磨(はりま)入りした秀吉は天正8年(1580)に官兵衛から城を献上され、翌年3層の天守をもつ城郭に整備。現在の城は関ケ原合戦後に池田氏、本多氏が築いた。
城郭カメラマンは“石垣”に注目!
菱の門から東へ続く石垣は、秀吉の築城期に積まれたもので、巨石を重ねた武骨な迫力はここならでは。秀吉時代の石垣は、上山里曲輪(くるわ)や搦手道(からめてみち)などでも見られる。
「姫路城」詳細
《続日本100名城》藤堂高虎が手がけた城郭と出石(いずし)の絶景「有子山(ありこやま)城」【兵庫県豊岡市】
永禄12年(1569)、秀吉は山名氏の本拠地・但馬(たじま)へ攻め込み、勝利する。信長に帰国を許された山名祐豊(すけとよ)が天正2年(1574)に新たに築いた城だ。しかし織田氏と毛利氏の関係が悪化したため、天正8年(1580)に秀長が侵攻して落城。城主になった秀長は藤堂高虎に築城を命じたと考えられている。
城郭カメラマンは“眺望”に注目!
登り詰めると主郭部を囲む石垣が迎え、出石の町並みを一望。その立地のよさを実感する。千畳敷や深く巨大な堀切を歩いて回れば、往時の城の姿が迫ってくるようである。
「有子山城」詳細
わずか一夜で築かれた伝説「墨俣一夜(すのまたいちや)城」【岐阜県大垣市】
永禄9年(1566)、信長の美濃攻略の足がかりとして、30歳の秀吉(当時は藤吉郎)が築いたという砦。有名な逸話だが史料が乏しく、築城時期やその実在も明らかではない。天守を模した歴史資料館では、『武功夜話(ぶこうやわ)』を基にした墨俣築城や稲葉山攻めを解説している。
城郭カメラマンは“立地”に注目!
墨俣は攻めに利く立地で、長良川のほとりに立つと金華山が見え、信長が目指した稲葉山城(現・岐阜城)へ、いまにも手が届きそう。秀吉の立身出世の象徴である、この地の物語性を実感できる場所。
「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」詳細
壮絶な“三木の干し殺し”の舞台「三木城」【兵庫県三木市】
秀吉率いる織田軍は天正6年(1578)から1年10カ月にわたり、信長から離反し毛利方となった城主・別所長治(ながはる)と交戦。秀吉は複数の付城(つけじろ)を造り、堀や柵で兵糧補給ルートをふさいだ。結果、餓死者は数千人を超え、長治一族の自害を条件に降伏した。
城郭カメラマンは“句碑”に注目!
本丸には井戸跡と伝天守台が残り、その上に立つ別所長治の辞世の句碑は、見る者の足を止めさせ、胸を打つ。周囲の秀吉付城群をめぐることで、隙なく包囲した構図が理解できる。
『三木市立みき歴史資料館』
『三木合 戦軍図』(写真上/複製)や出土品などを展示する。
☎0794-82-5060
9:00~17:00、月と祝の翌日休
入館無料
「三木城」詳細
《日本100名城》秀長の攻撃に落ちた“天空の城”「竹田城」【兵庫県朝来(あさご)市】
播磨との国境を守る拠点で、但馬国山名氏の重臣・太田垣氏が城主だった。『信長公記(しんちょうこうき)』によると天正6年(1578)、秀吉の命で秀長が落城させ城代に。豊臣の城となり石垣が造られていく。関ケ原合戦後に廃城になったが、天守台から三方向に曲輪を配した縄張り、穴太(あのう)衆が積んだという石垣は現存する。
城郭カメラマンは“石垣”に注目!
天守台から望む南千畳の眺めに、山そのものが城となり、石垣と曲輪が折り重なる密度が際立つ。武骨な石の連なりが生む、遺跡感たっぷりな景観を眼下に収めたい。
「竹田城」詳細
《日本100名城》紀州平定後に秀長が築いた「和歌山城」【和歌山県和歌山市】
天正13年(1585)、紀州を平定した秀吉は秀長に命じて、岡山(現・虎伏山)に城を造らせた。築城を担当したのは藤堂高虎らで、石垣には紀州特産の青石(緑泥片岩)、石塔や石仏なども使われている。秀長の家臣・桑山氏などが城主になったのち、紀州徳川家の居城となった。
城郭カメラマンは“野面積み”に注目!
秀長の築城期に積まれた天守台の石垣は、結晶片岩の荒々しい野面積みが城の表情を決定づけ、ひと際強い存在感を放っている。天守最上階から旧城下町を見渡す眺めも美しい。
「和歌山城」詳細
《日本100名城》郡山城主となった秀長の詰城「高取城」【奈良県高取町】
標高583.6mの高取山山頂に築かれた、日本三大山城の一つ。天正13年(1585)、大和入りした秀長は、家臣の本多利久を城主に命じ、郡山(こおりやま)城の詰城(守りの砦)として整備させる。大小天守に27の櫓、33の門をもち、郭内周囲約30㎞という規模を誇ったが、現在は石垣が残るのみ。
城郭カメラマンは“山城感”に注目!
山中へ分け入ると、曲輪ごとに石垣が累々と現れる。特に本丸と天守台の石垣は規模が際立ち、深い山中に巨大な石の遺構が立ち現れるような、圧倒的な迫力がある。
「高取城」詳細
《日本100名城》名城を陥落させた秀吉の包囲網「鳥取城」【鳥取県鳥取市】
久松山に立つ防御に優れた山城で、信長も「名城」と評した。天正8年(1580)に一度攻めた秀吉も手こずり、作戦を変更。約70の陣城を築いて包囲し、翌年夏に太閤ヶ平(たいこうがなる)に陣を構え、兵糧攻めを実行した。城主の吉川経家(きっかわつねいえ)は、惨状に耐えきれず降伏する。
城郭カメラマンは“スケール”に注目
秀吉の鳥取城攻めの壮大さは、太閤ヶ平に立ってこそわかる。眼前に久松山を見据えた、土塁や空堀が残る陣城の広さが、秀吉軍の包囲網の規模を物語っているようだ。
「鳥取城」詳細
《続日本100名城》水攻めからの“中国大返し”「備中(びっちゅう)高松城」【岡山県岡山市】
毛利氏の重要拠点だった城。天正10年(1582)、大軍を率いてきた秀吉だが、沼地に苦しみ攻めあぐねていた。黒田官兵衛は約3㎞の堤防を築いて足守川の水を引き込み、浮島のように城を孤立させる水攻めを実行。本能寺の異変を知った秀吉は、毛利氏と和睦して“中国大返し”へと走り出す。
城郭カメラマンは“堀のハス”に注目
本丸の沼を整備したことで、400年の時を経て土中に眠っていたハスが再び花を咲かせている。「宗治(むねはる)蓮」と呼ばれ、水に守られ水に散った城主・清水宗治の気配をいまに伝えている。
『備中高松城址資料館』
岡山出身の歴史家・磯田道史氏監修の動画やパネルを展示している。
☎086-287-5554
10:00~15:00、月(祝日の場合は翌日)休
入館無料
《日本100名城》150以上の大名が集結した陣跡「名護屋(なごや)城」【佐賀県唐津市】
天下統一を達成した秀吉は大陸侵攻を実行するため、わずか6カ月ほどで肥前名護屋に城を建てた。大名の陣屋150カ所、武家屋敷、城下町などが築かれ、人口20万以上の巨大都市に。しかし秀吉が亡くなり、文禄・慶長の役(1592~1598)が幕引きすると、その役目を終える。
城郭カメラマンは“破城”に注目
天守台から望む玄界灘は、秀吉が思い描いた夢の広がり。城内の随所に再利用を防ぐため、破却された石垣跡も残る。その姿は秀吉の破れた野望を映し出しているかのようだ。
『佐賀県立名護屋城博物館』
秀吉が大坂城から移設したという「黄金の茶室」を復元。天守台から出土した「金箔巴文軒丸瓦(ともえもんのきまるがわら)」など、貴重な遺物も見られる。
☎0955-82-4905
9:00~17:00、月(祝日の場合は翌日)休
入館無料(特別企画展は有料の場合あり)
「名護屋城」詳細
《続日本100名城》秀長が城主となり管理を行った「福知山城」【京都府福知山市】
天正7年(1579)に明智光秀が築城。光秀が討ち取られると秀長が一時的に管理し、秀吉の正室・ねねの伯父、杉原家次が城主となった。天守台から本丸の石垣は築城当時のもの。
「福知山城」詳細
光秀に勝った秀吉が“畿内の要”として築城「山崎城」【京都府大山崎町】
秀吉は天正10年(1582)6月、天王山麓で明智光秀を撃破。山崎合戦に勝利した翌月、“畿内の要”として山頂に天主をもつ本格的な城郭を築いた。曲輪、土塁、石垣、虎口が残存する。
「山崎城」詳細
《続日本100名城》紀州平定した秀吉が天守を築かせた「岸和田城」【大阪府岸和田市】
根来(ねごろ)衆などの紀州勢を平定した秀吉は天正13年(1585)、叔父の小出秀政を城主に整備を進め、天守を築いた。江戸時代の落雷と明治維新の破却で堀と石垣のみが残り、天守は昭和期の再建。
「岸和田城」詳細
文=朝倉由貴 写真=岡 泰行
『旅の手帖』2026年3月号より






