今回の“会いに行きたい!”

越後長野温泉『嵐渓荘(らんけいそう)』館主の大竹啓五(けいご)さん

1カ月の本代は5万円。いまも本屋に月2回通う

本棚は持ち主の性格を色濃く映す鏡だ。『嵐渓荘』のラウンジに置かれた本棚には、村上春樹、東浩紀、宮沢賢治……自然、文学、SF、哲学、サブカルまで、ロマンと批評精神が同居する多層な本が並んでいる。

『星の王子さま』のポップアップ(飛び出す)絵本や、藤子・F・不二雄のSF短編PERFECT版、『早稲田文学』まである。この本棚を見た瞬間、館主・大竹啓五さんの好奇心の幅広さが伝わってきた。

「自分が実際に読んでおもしろかった本の中から、温泉宿のラウンジで読むのによさそうなものを、300冊ほど置いています」。本棚が増殖し続けるため、最近はKindleを愛用しているそうだ。

先月だけで書籍40冊とマンガ40冊の合計80冊、5万円分も購入したというから驚く。

「『ゴールデンカムイ』をキャンペーンで31巻まとめて買ったので、冊数はいつもより多いかもしれません。Kindleで読むと次々おすすめされるので、ついポチってしまうんです。精読するのはそのうちの何冊かですが、事務作業の合間に、暇さえあれば読んでいます」

最近のおすすめ本は東浩紀の『平和と愚かさ』(ゲンロン)。「哲学は正しさを少し鈍らせて顧客対応する技法だと説かれていて、温泉宿がこの世にあっていい理由を実感できた」。ほかにも、大ヒット中のSF映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は「アンディ・ウィアーの原作のほうが断然楽しめます」。

本棚には啓五さんが選んだ「宿で読むのにふさわしい本」が並ぶ。
本棚には啓五さんが選んだ「宿で読むのにふさわしい本」が並ぶ。

本屋通いは学生の頃からの楽しみで、月2回は地元の書店「知遊堂」へと足を運ぶ。「売り場を歩いて、ピンときた本を買ってきます」

啓五さんは、早稲田大学第一文学部で哲学を専攻していた。小学生の頃から、好きになった女の子を見ては「宿の嫁さんに向いているだろうか」と考えてしまうような子どもだった。その感覚は青春時代まで続き、「思えば、ずっと嫁探しの人生だった」と笑う。

中学生になると、「交通も不便なこんな場所で、宿屋の商売はいつまで続くのだろう」と思いをめぐらせていた。そんな視点をもつ子どもは、そう多くないはずだ。

一方で大学時代は、東京・渋谷のバーでバーテンダーのアルバイトもしていた。お酒を飲みながら、初めて出会った人と話すのが好きだった。その頃の経験を生かし、いまも「主のもてなし」と銘打って、20時からお客さんに頼まれれば酒を振る舞い、語り明かす。

木製のヴィンテージプレーヤーやアンプ、スピーカーとアナログレコードのコレクションも。
木製のヴィンテージプレーヤーやアンプ、スピーカーとアナログレコードのコレクションも。

大正末期に曽祖父が創業。地元テレビで公開デートも

大竹家は代々、下田郷(しただごう)で村政を司る「肝煎(きもいり)」(庄屋・名主の別称)の役職を務めた旧家。啓五さんの曽祖父、保吉(やすきち)さんは13歳で東京へ出て、日露戦争に従軍。その後は北陸の鉱山会社で働いた。そこで身につけた、人力で井戸を掘る技術「上総(かずさ)掘り」で『嵐渓荘』の源泉を掘り当てたというのだから、すごい。

「何もない藪に、雪が解けない場所があるのを見つけて、井戸を掘ってみようと思い立ったそうです」

時は大正時代末期。掘り当てた冷鉱泉を沸かして、温泉宿を開業した。しかし、開業後も宿に留まる性格ではなく、仲間と会社を立ち上げ、九州まで「上総掘り」の遠征に出かけたという。話を聞いていると、保吉さんの行動力あふれる豪快な人柄が時代を超えて迫ってくる。

大浴場のほか、2つの貸切風呂「石湯」「深湯」がある。こちらは「石湯」の内風呂。
大浴場のほか、2つの貸切風呂「石湯」「深湯」がある。こちらは「石湯」の内風呂。

さて、そんな血を引く啓五さんの“嫁探し”もまた、なかなかの物語だ。28歳の時、地元テレビ番組の公開見合いコーナーで成婚。見合いからデート、結婚、子どもの誕生まで、計5回テレビに出演したというから、人生をエンタメに変える天真爛漫さがうかがえる。

しかし順調に見えた結婚生活も、その3年後には奥さんが脳腫瘍で闘病の末、二人の子を残して亡くなる。

年月が経ち、38歳で現・若女将の由香利さんと再婚。元ウェブデザイナーの由香利さんに「旅館の仕事はやらなくていい」とプロポーズしたものの、彼女はリーダーシップとセンスの持ち主で、「女将に向いている」と啓五さんは実はずっと感じていたそうだ。

2011年の水害では、大浴場もロビーの床も泥で埋まった。そのとき陣頭指揮をとり、復旧に奔走したのが由香利さんだった。啓五さんは「あのとき、彼女の時代が始まった」と振り返る。「宿を支え続けてくれる妻には感謝しかありません」。二人の絆の深さが伝わってきて、胸の奥がじんとした。

お客さんに源泉のほうじ茶を振る舞う若女将の由香利さん。
お客さんに源泉のほうじ茶を振る舞う若女将の由香利さん。
一枚窓から渓谷を望む渓流館の客室。
一枚窓から渓谷を望む渓流館の客室。

温泉は塩こんぶ茶の味わい。2027年 には「八十里越」の峠も開通

登録有形文化財の木造3階建ての客室、自然を望む冷鉱泉の湯、山菜やキノコ、川魚など山里らしい郷土の味覚……。古きよき日本の原風景がまるごと残る宿は、いまや本当に貴重だ。その噂を聞きつけて老若男女が訪れ、最近はインバウンド客も増えてきた。

ロビーに置かれた鍋から、ひしゃくで一杯すくってコップに注ぎ、そっと口に含む。ほんのり塩味のお茶が、体の奥にすっと染みわたっていく。まるで塩こんぶ茶みたいな味わい。

ほうじ茶とブレンドされた源泉で、「こんなにおいしい源泉ってあるんだ」と感心してしまう。朝食の「源泉粥」も定番で、これがまたやさしい味わいで忘れがたい。

夕食は肉厚な鯉の洗い、ゼンマイの一本煮など、当地のごちそうを盛り込んだ「山里会席」。
夕食は肉厚な鯉の洗い、ゼンマイの一本煮など、当地のごちそうを盛り込んだ「山里会席」。

そしていま、地域が2027年に向けて盛り上がっているビッグニュースがある。

かつて会津・只見地域と結んでいた「八十里越」と呼ばれる峠道を復活させた国道289号が、いよいよ開通する予定なのだ。これにより、新潟・三条市と福島・只見町を結ぶ旅が現実のものとなる。

「八十里越」の名称は、八里の道が八十里に思えるほどの急峻な山岳古道であったことに由来する。

翠悠館(すいゆうかん)「みず木」の客室。ベッドの壁面には、地元の箸メーカー・マルナオの黒檀の箸で表現した八木ヶ鼻の景色が。
翠悠館(すいゆうかん)「みず木」の客室。ベッドの壁面には、地元の箸メーカー・マルナオの黒檀の箸で表現した八木ヶ鼻の景色が。

「八十里越の再生のために私財を投じた明治時代の西潟為蔵や、昭和期に日本を改革した田中角栄など、先人たちが挑戦してもなしとげられなかった夢が、ようやく叶うんです。周辺では旧石器時代の、なぜか瀬戸内周辺に多い国府型ナイフ形石器も出土しています。歴史ロマンを感じてほしいです」と啓五さん。

奥会津へと続く峠が開けば、宿は険しい山々に囲まれた行き止まりの一軒宿ではなく、旅の物語をつなぐ中継地になることだろう。

五十嵐川の石を組んだ「石湯」の露天風呂。
五十嵐川の石を組んだ「石湯」の露天風呂。
illust_2.svg

おすすめ立ち寄りスポット

『八木茶屋』源泉の旨味をラーメンでも

山間の老舗定食店。名物の山塩ラーメン1000円のスープは『嵐渓荘』の源泉を煮詰めた特製だ。クロレラを練り込んだ麺にチャーシュー、黒キクラゲなどがのる。

「八木ヶ鼻」太古の海がつくり出した絶壁

高さ200m以上の荒々しい岩肌は、700万年前の海底火山からの溶岩が固まった石英粗面岩。ハヤブサの繁殖地として県の天然記念物にも指定されている。

住所:新潟県三条市長野1450/アクセス:上越新幹線燕三条駅から車50分(送迎あり)

取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年7月号より