野田伊豆守(のだいずのかみ)(達人)の記事一覧

野田伊豆守(のだいずのかみ)
達人
野田伊豆守(のだいずのかみ)
フリーライター・編集者
1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。
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非業の死を遂げた三代将軍・源実朝。その歌人としての才を偲ぶ、鎌倉歌碑巡り
源頼朝の跡を継ぎ2代鎌倉殿となった頼家は建仁3年(1203)、比企の変に関連して将軍職を追われてしまう。その後、弟の実朝がわずか12歳で3代鎌倉殿の地位に就いた。まだ幼かった頃は、実際の政治は北条氏を筆頭に、重臣たちが執り行っていた。しかし長ずるにつれ政治に関与することも増えてゆき、それとともに官位も高くなっていく。実朝は歌人として優れた才能を発揮し、92首が勅撰和歌集に選ばれたほどの名人であった。本来ならば武家の棟梁は兄に務めてもらい、自らは文化人として生きることを望んでいたのかも知れない。今回は鎌倉に建立された実朝歌碑を訪ね、その才に触れてみたい。
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黎明期から力を合わせ歩んだ和田義盛。その力を恐れた北条義時の挑発で和田合戦が勃発す
源頼朝が亡くなった後、鎌倉で実質的に政治を仕切っていたのは北条時政であった。時政が執権となり、政治を動かすようになって以来、有力御家人であった梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされ、権力は一気に北条氏へと集まった。ところが元久2年(1205)閏7月、江間義時が父の時政を伊豆に追放し、北条家を継承する。義時が北条姓を使いだしたのは、これ以後であった。これにより義時が北条家の正当な後継者だということを、内外にアピールしたのである。義時が権力を継承した後、北条氏に目をつけられた有力御家人が、大河ドラマ内では“癒し系”の武将として描かれている、和田義盛であった。義盛は頼朝の挙兵以来、ほとんどの戦いに参加し、多大な功績を挙げている。彼はなぜ義時に狙われてしまったのか。その背景を考えつつ、義盛ゆかりの地を辿ってみたい。
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坂東武士の鑑・畠山重忠の生誕地と終焉の地を巡る
『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は格別の存在、理想の武士とされ、かなり美化された存在に描かれている。重忠は長寛2年(1164)、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の深谷市畠山)で生まれた。畠山氏は桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏のひとつ、秩父氏の一族であった。治承4年(1180)の源頼朝挙兵に際して重忠は、父の重能が大番役として京に上っていたこともあり、最初こそ頼朝に敵対。三浦氏の本拠地である衣笠城を攻め落とした。しかし房総半島で再起を果たした頼朝が武蔵国に進軍して来ると、頼朝に帰服している。その後はたびたび軍功を立て、頼朝から絶大な信頼を得ていた。それは戦上手なだけでなく、文武両道に優れ、謹厳実直で情けを知る、まさに「坂東武士の鑑」であったことも、重用された要因だったと思われる。まずはそんな重忠のルーツ、埼玉県深谷市に残る生誕の地へと足を運んでみよう。
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頼朝行列が練り歩いた三島周辺に、ひっそりと残る仁田忠常の墓
去る8月15日から17日までの3日間、静岡県三島市で3年ぶりに「三嶋大祭り」が開催された。多くの市民が待ちに待った夏祭り開催だっただけに、その熱気はいやが上にも高まった。しかも16日に行われた恒例の「頼朝公旗挙げ行列」は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で頼朝を演じた大泉洋さんが頼朝役で参加したため、例年以上に盛況を極めた。さらに安達盛長役の野添義弘さん、源範頼役の迫田孝也さん、仁田忠常役の高岸宏行さんがドラマと同じ役どころで参加。沿道を埋め尽くした人々に、盛んに手を振ってくれただけでなく声までかけてくれ、祭りを大いに盛り上げてくれた。この行列を見送った後、ふと頭をよぎったのが、この行列が行われた8月16日の時点で、ドラマ内で存命なのは高岸さん演じる仁田忠常ただ一人、ということだ(三嶋大祭り開催時点では)。ということで、仁田忠常という人物にスポットを当てつつ、三島市に残る頼朝の足跡を辿ってみたい。
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頼朝亡き後の悲しき骨肉の争い。阿野全成の粛清、そして2代将軍頼家の終焉の地・修善寺を歩く
源頼朝亡き後の鎌倉は、おどろおどろしいまでの権力闘争が繰り広げられることになってしまう。最初に狙われたのは、頼朝やその後を継いだ源頼家から絶大な信頼を得ていた梶原景時であった。続いて比企一族が粛清されると、鎌倉は北条時政の天下のような状況となる。権力欲に取り憑かれた時政の次なるターゲットは、自らの孫である源頼家だった。
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源頼朝の急死により武家政権に亀裂が。御家人同士の熾烈な権力闘争始まる
建久10年(1199)1月、初の武家政権樹立の立役者にしてカリスマ的な存在であった源頼朝が急死する。直後に嫡男の頼家が二代目の鎌倉殿に就任するも、若年で経験不足、何よりカリスマ性は頼朝に遠く及ばなかったことから、ほどなく実権を制限されてしまった。その後、鎌倉では血生臭い事件が立て続けに勃発したのである。
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文武に優れた、異色の御家人・梶原景時の足跡と最期を追う
NHKのホームページにある『鎌倉殿の13人』の登場人物欄を見ると、中村獅童氏演じる梶原景時には“謎の武将”という肩書きが書かれている。というのも、その登場の仕方からしてミステリアスだからであろう。梶原氏は平安時代中期に坂東に下向し、武家となった桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、石橋山の合戦で源頼朝の軍を討ち破った大庭景親とは同族なのだ。当然、この合戦で梶原景時は大庭軍に属していた。ところが敗走した頼朝一行の探索に加わっていた景時は、しとどの窟に身を潜めていた頼朝一行を見逃したのである。それまでは歴史の表舞台に出ていない景時が、一躍時の人となった出来事だ。その後、頼朝からの厚い信頼を得て、遂には「一の郎党」「鎌倉の本体の武士」と呼ばれるまでになった。まさしく謎多き人物である。今回はそんな梶原景時ゆかりの地を訪ねてみたい。
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頼朝が富士の裾野で大巻狩りを挙行!そこで予期せぬ仇討ち事件が勃発!!
源頼朝は征夷大将軍に任じられた翌年の建久4年(1193)、その力を誇示するべく多くの御家人を集め、富士の裾野一帯で巻狩りを行った。『吾妻鏡』の5月8日条には「富士野藍澤の夏狩を覧んがために駿河国に赴かしめたまふ」と記され、同年6月7日条には「駿河国より鎌倉に還向したまふ」とある。そこからこの催しは、約1カ月という長期間に渡り行われたのがわかる。大勢の御家人が参加しただけでなく、さすがに誇張された人数だとは思うが、勢子の数まで入れると70万人が集まったとされる。このような空前の巻狩りの最中、曽我兄弟による前代未聞の仇討ち事件が勃発したのである。
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源氏の物語でもっとも悲しい事件。頼朝と義経の兄弟対決を伝える地を巡る
源氏による武家政権誕生の話をする場合、避けて通ることができないのが源頼朝・義経兄弟の確執と、悲劇的な結末であろう。多くの伝説に彩られた義経は、天才的な戦いの才を発揮して平家討伐における最大の功労者となったにもかかわらず、最終的に兄頼朝の怒りを買い、討ち取られてしまう。大河ドラマでも、すでに悲しい最期を迎えてしまった。今回はそんな義経の、鎌倉における足跡を追ってみることにしたい。義経は幼少の頃に鞍馬寺に預けられ、その後は諸国を放浪し、奥州の藤原秀衡の元に身を寄せている。それだけに、鎌倉にはゆかりの地が多いわけではないが、どこも印象的な場所ばかり。ということで、まずは鶴岡八幡宮へ足を運んだ。
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功臣・上総介広常の死。鎌倉に残る足跡は、悲しいほど少ない
鎌倉幕府の黎明期は、陰謀や粛清など、悲劇的な事件が思いのほか多かった。その最初の犠牲者と言えるのが、上総介平広常(かずさのすけ たいらの ひろつね)であろう。房総平氏惣領家の頭首という立場で、その支配地域はほぼ上総一国(房総半島中央部、千葉県)であったと考えられている。広常は、もともと鎌倉を本拠地としていた源義朝の郎党であった。保元の乱では義朝軍に属し、平治の乱では義朝の嫡男である義平に従って奮戦している。言うまでもなく義朝は頼朝の父、義平は兄だ。義朝が平家との戦いに敗れると平家に従うが、頼朝が挙兵した頃は平清盛との間に確執が生じていた。
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