今回の“会いに行きたい!”
古湯温泉『旅館大和屋』館主の山口勝也さん
逆行するおしゃれの代名詞、レコードを宿の売りに
くるくる回る円盤に針を落とすと、スピーカーから重厚な音楽が響きわたった。盤をひっくり返してB面を聴く——。面倒でもこのスローな時間がなんとも心地よい。
特別室「佐嘉の間」には、往年の名機JBL4344とマッキントッシュのプリアンプのセット、尾崎豊や小田和正、山下達郎、サイモン&ガーファンクルなど、主に1960〜1990年代に活躍したミュージシャンのアルバムが置かれている。
お気に入りのマイレコードを携えてくるお客さんもいる。愛好家のみならず、最近は米津玄師(よねづけんし)や藤井風(かぜ)といったミュージシャンもアナログ盤レコードを出しているから、「入手したけれど、聞く場所がない」という若者も訪れる。
「アナログレコードはマイクから出る高周波をカットしないから、音色がやわらかく、奥深いのが特徴です」
と話すのは、館主の山口勝也さん。
少年時代から小遣いで集めたレコードに、お客さんから寄付されたレコードが加わり、『大和屋』にあるLPレコードは約3000枚。
中学2年生の時に、同級生の女の子から「勝也くんの声なら、松山千春の歌がよかよね」と言われたのがきっかけでギターを弾き始め、高校時代はバンドを組んだ。さだまさしや松山千春が好きで、「いまも鼻歌は松山千春の曲(笑)」。
調理師学校を出て、懐石料理店で3年の修業後、勝也さんは宿に戻る。そして2007年、44歳のときに「レコードや音楽を全面に打ち出した宿を作ろう」とリニューアルする。
宿の創業は明治35年(1902)。曽祖父が親戚から譲り受け、昭和初期には『旅館大和屋』として、営業を継承していた。とりたてて個性はない、田舎の温泉宿だった。
バラ風呂と焼酎バーで、唯一無二の時を過ごす
リニューアルで最初に整えたのは談話室だ。日中と朝はカフェとなり、宿泊客はレコードを聴いたり、読書をしたり、思い思いに過ごせる。館主がすべてのお客さんの顔を見て話せるのは、小さな宿ならでは。カウンターからフロント、階段も死角にならず、見渡せるように設計した。
勝也さんが思い描くカフェとは、人が集う場所。発想の原点は大学時代にアルバイトしていた、大学近くのカフェ。そこはマスターやスタッフと話をするために多くの人が集う空間だった。その後、料理修業中に通った御堂筋沿いのオープンカフェでの体験も、カフェづくりへの思いに拍車をかけた。
「そこは、うるさくて空気が汚くても、一杯のコーヒーに人が集まるんです。古湯温泉なら、小鳥のさえずりを聞きつつコーヒーが飲める。いつかそんな場所をと考えていました」
古湯温泉では12軒のうち8軒の宿が嘉瀬川に面しているが、『大和屋』は川沿いではない。しかし、同級生からも「俺たちが自慢できる宿になって」と背中を押され、満足してもらえる宿を作ろうと心を砕いた。
貸切風呂は、県内の酒蔵の六尺ある酒樽で造った。第1・2・3木曜と金曜は150本のバラを浮かべたバラ風呂にしている。天皇陛下に献上した最高級品を扱う「しま薔薇(ばら)園」のバラだ。「女性が喜んでくれる宿がはやる」と信じて、20年間続けてきた。最近SNSで「バラ風呂」のビジュアルがバズって、若い人が頻繁に訪れているそうだ。
リニューアル時には、佐賀県の観光アドバイザーをしていた黒川温泉『新明館』社長の故・後藤哲也さんに教えを請うた。「行政が悪い、アクセスが悪いと人のせいにしている場合じゃない。できることをやろう」と発想を転換させた。
「旅館業は“地域の文化館・博物館”であれ」という先輩の哲学を胸に、料理も徹底して佐賀県産の食材を選んでいる。食前酒は温泉水で割った梅酒から。ひと山越えた唐津や福岡県糸島市でその日獲れた魚をお造りにし、ストレスなく平飼いしたみつせ鶏は鍋で、佐賀牛の石焼きはなんとA5ランクが出てくる。
ご飯は、ホタルが舞う里で育った棚田米を宿で精米し、先代から引き継いだ鉄釜で炊く。作り手のストーリーが伝わってきて、よりおいしくいただける。
食後の「焼酎バー」はコミュニケーションの場。火・木・土曜の21時から1時間限定(一人1100円)で、好きなお酒を飲むことができる。佐賀の酒蔵「七田(しちだ)」や「おおち」、花酵母で醸された「天吹(あまぶき)」といった60種類以上の焼酎や梅酒も用意されている。
「大貫妙子の曲をよろしく」
「角松敏生の『崩壊の前日』が入ったアルバムを探してもらえる?」
「ダイアナ・クラールを用意して」
次に聴きたいレコードをリクエストする人もいる。
「ご夫婦でも友人同士でも、宿に来るお客様は仲よししか来ないでしょう? 幸せのお裾分けをもらえる。本当に素敵な仕事だなと思います」
「旅館業って本当に楽しい」。「朝カフェ」でコーヒーを淹れるわけ
「朝カフェ」では勝也さんは再びカウンターに立ち、ハンドドリップでコーヒーを淹れる。手間を減らすなら、コーヒーメーカーを置けばいいわけだが、勝也さんはあえてアナログな接客を選ぶ。
「旅館業って本当に楽しいんです」
勝也さんの口からは周囲への感謝と旅館業への愛しか出てこないから、対面したお客さんは心地よさを感じて、リピートしたくなるはずだ。
「『コーヒーがおいしい』と言っていただけたときは、理由を5つお伝えしています。まずはお客様が健康であること。2つ目は同行された方との相性がよいこと。3つ目はコーヒーの豆屋のおやじの背中が格好いいこと。4つ目は水がおいしいこと。そして最後に、私のテクニックです」とにっこり。
朝食とともに厨房に入り、夜は貸切風呂を掃除して帰る。ほとんど休みなしで、宿とともに生きている。休日は朝5時に起きて、福岡の志賀島(しかのしま)までバイクで流すという。
「ライダースプランもやっています。島根のお客様が650㎞走って、吉野ケ里遺跡を見に来る途中に泊まりに来てくれます」
何よりも、勝也さんの穏やかな人柄ゆえに人が集まるのだろう。
温泉水で炊き上げたつややかな光沢の棚田米と、いりこと昆布の一番出汁の味噌汁の朝食もやさしく沁(し)みる。女将手作りの漬物や、温泉水でひと晩熟成させたカスピ海ヨーグルトなど、細部まで心が配られていた。
手間を惜しまず、アナログな接客をしてくれる宿は最近かなり減っている。次に訪れるマイリストにぜひ加えてほしい。
おすすめ立ち寄りスポット
『ダムの駅富士 しゃくなげの里』佐賀の土産を買って帰るなら
宿から車で3分。新鮮野菜や手作りパンなど、土産物が探せる直売所。嘉瀬川ダムのほとりのテラス席で食事ができる。地下水の水汲み場も。
『oriori(オリオリ)』夫婦で営む古道具とカフェ
東京から移住した夫婦が営む古道具店。 懐かしいかわいいものに囲まれて、コーヒーやスコーンが楽しめる。古布をリメイクしたバッグなども販売。
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年4月号より







