今回の“会いに行きたい!”
釜沼温泉『大喜泉(だいきせん)』館主の田口雄太さん
祖父から孫に託された、療養のための宿の思い
ものづくりが好きだった田口雄太さんが、革職人の工房に弟子入りしたのは22歳のときだ。
神奈川県逗子にある個人工房のオーナーは、皇族のカバンを手がける技術力をもち、オーダーメイドのバッグや小物の製作を行っていて、「自分もこんなカバンが作れたらいいな」と思い、門を叩いた。
工房で働きながら、自身のブランドを立ち上げ、バッグや小物を作っては展示会で販売する日々。革職人として6年目を迎えた頃、木曽に住む祖父から一本の電話が入った。
「雄太、うち(『大喜泉』)を継いでくれないか?」
宿の創業は明治2年(1869)。その歴史は150年以上におよぶ。2代目である祖父・修さんは当時86歳。ピアニストだった父・眞(まこと)さんは二度、事業承継を試みたが頓挫しており、雄太さんが継がなければ宿はなくなってしまう——。
「この宿がなくなると困る人がいる」。そう思い、継ぐことを決心した。
小学1〜3年の頃に家族とともに釜沼温泉で暮らしていたとき、祖父の後ろ姿を見て、「この宿は普通の温泉宿とは少し違う」と感じていた。
むかしから、アトピー性皮膚炎などの皮膚の悩みを抱える人たちが多く訪れる湯治場で、祖父は家族のような親密さで、お客さんの療養相談にのっていた。
「祖父はとにかく勉強熱心で、温泉で悩みを解決してあげたいと本気で思っていた人でした」
修さんは長野県温泉協会の「温泉療養指導士」制度の発起人で、温泉の知識に精通。祖父を慕って長年この温泉に通い続け、釜沼温泉の宅配温泉水を利用するリピーターたちの手紙は、いまも大事にファイリングされている。
珍しい食材を選んで、驚いてもらうワクワク感
宿を継いだ雄太さんは最初、革職人としての経験を生かし、宿泊プランに革小物づくりのワークショップを組み込んだ。「木曽の手仕事市」に出品するため、夜どおしで革小物を作り続けたこともあったという。
しかし、その生活は長く続かなかった。1年後に祖父が他界し、雄太さんは29歳で代表取締役に就任したからだ。以降は接客も料理もバックヤードも、すべて一手に引き受ける日々が始まった。
米を研ぎ、風呂やトイレを掃除し、食器を洗い、布団を敷く。冬になる前には薪を割る。経理も予約管理も、すべて雄太さんの仕事だ。
同じ頃に結婚したが、「宿に入らないこと」が条件だったため、大喜泉に女将はいない。基本的にはワンオペで、パートやアルバイトのスタッフにサポートしてもらっている。圧倒的に時間が足りない——。
そう痛感した雄太さんは、「全部やろう」と欲張るのをやめた。当初は自ら獲った猪肉や鹿肉をジビエとして提供しようと、狩猟免許を取得したものの、3年で返納している。
「34歳のいまは、どうしたらお客さんに喜んでもらえる宿にできるか、やれることを取捨選択しています」
いま最も力を注いでいるのが料理だ。祖父は“心身を整える薬膳”を自ら作っていたが、雄太さんもまた、日々料理の腕を磨いている。
道の駅で珍しい食材を見つけては、レシピを調べて試作。その繰り返しだという。「お客さんの反応をすぐに見られるのがおもしろくて……」
料理は未経験だそうだが、ものづくりのセンスは料理にも関係するのだろうか。かなりレベルが高く驚いた。盛りつけも美しい。
「実は強力な助っ人がいるんです」。昨年から、木曽福島駅近くで割烹料理店『幸川(こうせん)』を営む木澤敏雄さんが、監修と仕込みを手伝っている。
「年齢も近くて、変わった者同士だから合うのかな。一緒にいると楽しくて、食材をどうおいしくできるか、SNSのメッセージで頻繁にやりとりしています」
この日も雄太さんは、料理とフロアを一人で担当していた。必要なところにはしっかり手をかけ、削れるところは省力化する。
料理説明は一度にまとめ、日本酒の飲み比べセットはセルフで注いでもらう。一方で、揚げたての天ぷらは「あつあつをめしあがっていただきたい」と、一品ずつテーブルを回ってサーブする。割烹料理店のような心遣いで、その緩急のつけ方が印象的だった。
「食べたことがないもので驚いてもらいたい。“よそもの”の視点がきいていると思っています」
温泉宿経営にも生きる「マーチング」で培った力
「革小物」と並んで雄太さんが情熱をもって取り組んできたのが、音楽とフォーメーション(隊形移動)を組み合わせたパフォーマンス芸術である「マーチング」だ。マーチングバンドの演奏に出会ったのは、野球少年だった小学生の頃だったそう。
「初めて見たときは、稲妻が落ちたような衝撃を受けて、全身に鳥肌が立ったんです。『俺はこれをやるんだ』と思いました」と振り返る。
中学・高校でマーチングに没頭し、大型の低音金管楽器「チューバ」を吹く。卒業後は日本でアルバイトをしながら、世界最高峰のマーチング団体の一つ、米・イリノイ州の「Phantom Regiment(ファントム レ ジメント)」に所属。アメリカ最大のマーチングイベントDCI(Drum Corps International)に3年間、参加した。
開幕前の11~5月は強化練習で月に一回渡米し、6月の開幕から8月のファイナルに向けて各地でショーを重ねた。
「走りながら楽器を吹くような感じで、曲も感動的。その世界に入れて、本当に幸せでした」
マーチングには、宿を経営していくうえでの共通点があったそう。それは「みんなで一つの目標に向かって取り組むこと」。
宿が落ち着いた昨年4月からは、「伊那谷マーチングバンドTENRYU」を立ち上げ、地域の中学生にマーチングの醍醐味を伝える指導者としての活動も始めている。
祖父から孫に引き継がれた秘湯の宿は、ハードもソフトもアップデートの真っただ中。
「祖父とまったく同じようにはできないけれど、自分が思い描く形で、お客さんを喜ばせていきたい」
秘湯の宿の新たな療養の形を、日々探究している。
おすすめ立ち寄りスポット
『手打ちそば処 一竹(いっちく)』。雄太さんお気に入りのそば店
信州・開田高原と大町産の更科そば粉をブレンドした手打ちの二八そばは、二段盛り。秋はキノコ、春は山菜など地場の味わいを天ぷらで注文できる。
「赤沢自然休養林」。木曽ヒノキの森で森林浴
伊勢神宮の御神木もここから切り出されたという、日本三大美林の一つ。1時間足らずで歩ける森林コースが整備され、森林浴をしながらの散策は気分爽快だ。
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年8月号より








