長屋良行(ながや よしゆき)

名古屋の広告代理店に勤務。愛知県や名古屋市の武将観光に関わるプロモーションを担当。「名古屋おもてなし武将隊」「名古屋城検定」を企画。著書に『名古屋の言い分』『歴史物語を歩く』(ともにゆいぽおと)など。

進取の気風にあふれた尾張と、質実剛健な三河

資料によると豊臣秀吉は、貧相で教養がなく、小男で猿(鼠)面。しかも武芸の経験は少なく、非力で氏素性が知れない男だったそうである。天下人はおろか、およそ武士にもふさわしくない人物に思えるが、その分秀吉は非凡な才能をもっていた。それは「抜群のコミュニケーション能力」と「相手の心が読めるほどの洞察力」である。

こんな逸話が残っている。秀吉と徳川家康が戦った「小牧・長久手(ながくて)の戦い」の時、武力では勝てないと悟った秀吉は懐柔策を考える。まず、すでに結婚していた妹・あさひを離縁させ、正妻のいない家康に嫁がせた。しかし、それでも頭を下げない家康に対して、今度は母親・なか(大政所〈おおまんどころ〉)を人質として差し出したのである。

さすがの家康も、これには参った。その頃家康は、幼い時に生き別れた母親( 於大〈おだい〉)を引き取り、無類の親孝行者として知られていた。秀吉は、この弱点を突いたのである。この奇策によって家康はしぶしぶ上洛し、秀吉に対して臣下の礼を取った。秀吉は武器を使わず、こんな戦い方を得意とした。

江戸時代まで愛知は、尾張国と三河国に分かれていたが、秀吉の性格は「尾張人」ならではの特徴ともいえる。同じ愛知でも尾張と三河では大きく気質が異なり、商業が盛んだった尾張は、派手好きで独立心が強く、進取の気風にあふれた「かぶき者」が多い。一方、農業が中心だった三河は、保守的で我慢強く、真面目で協調性があり質実剛健。

隣接する両国は、絶えず争い、ライバルとして競い合ってきた。そんな愛知から、戦国時代に尾張から織田信長、豊臣秀吉、三河から徳川家康という3人の天下人が誕生した。

三英傑の出身地。
三英傑の出身地。

信長という天才が秀吉と家康を天下人へと誘った

「名古屋おもてなし武将隊」の仕事をしていると、「なぜ愛知から三英傑が生まれたのか?」という質問をよく受ける。

歴史学者の多くは、京都からの距離や肥沃な大地など地理的な優位性を挙げているが、私はいつも「織田信長という天才が、尾張で生まれたから」と答えている。

身分制度や既得権益の破壊、宗教勢力の一掃など、信長は「絶対にあり得ないことを、平気で行った」という点において常人ではなかった。信長がいなければ、農民出身の秀吉はどんなに頑張っても足軽止まり。家康も、今川氏の家臣のままか、武田氏に滅ぼされていた可能性もある。

秀吉は、短気で気難しい信長に取り入り、異例の大出世を果たし、信長が本能寺で討たれたあと、信長の志を継いで天下を統一した。明るく素直で、こまやかで機転が利く秀吉は、武骨な猛将がそろう織田家臣団の中で異彩を放っていたことだろう。家康もまた、愚直に信長についていったおかげで、秀吉亡きあと、天下が転がり込んできた。

「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」。江戸時代に流行したこの狂歌(風刺歌)は、3人の役割と性格を上手に言い当てている。

全国多くの都市で愛知の文化・気質が定着

信長・秀吉・家康。気質の分かれる3人が天下統一を目指すなか、それぞれの家臣や子孫が全国へ散らばり各地を統治。その結果、江戸時代には大名の約7割が尾張(1割)・三河(6割)ゆかりの者となった。大名が移封すれば、家臣たちも移住する。菩提寺や氏神はもちろん、文化、風習、言葉、祭り、食文化も移動したはずである。

ちなみに、江戸(東京)の町は三河人によって造られたため、江戸弁のルーツは三河弁だったという説がある。

また、日本の県庁所在地の多くは城下町だが、そのほとんどは尾張・三河の大名たちによって城が造られ、城下町が整備されている。こうして日本全国の多くの都市に、愛知、特に三河の文化や気質が運ばれ、その地に定着した。

礼儀正しく、真面目で、秩序を守り、我慢強く、勤勉。落とした財布が世界で一番戻ってくるといわれる国・日本。世界から賞賛を受ける、そんな日本人の気質が、徳川家康と三河人によって作られた、というと驚かれるだろうか。

実は、家康が天下統一を果たす「以前」と「以後」では日本人の性格が大きく異なる。戦国時代の日本人は、親兄弟でも殺し合うことは珍しくなかった。

最後に天下を手にした家康は、尾張人・信長、秀吉が広げるだけ広げた風呂敷をたたみ、戦国時代に終止符を打つ策を考えた。それは日本人の意識改革である。信長や秀吉の失敗を見てきた家康は、「戦乱の世」は、武力だけでは抑えられないことを痛感していた。

家康は、礼節を尊び上下関係を絶対とする「儒教(朱子学)」を江戸幕府の官学とし、260年間の江戸時代をとおして、藩校や寺子屋で徹底的に日本人に儒教の思想を植えつけたのである。

それが、現在の私たちがもつ日本人の性格である。この倫理観は、明治になっても「道徳」と名を変え、深く日本人の気質に浸透していった。

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秀吉ゆかりの地 in 名古屋

祭神は秀吉! 摂社には加藤清正も祀る「豊國(とよくに)神社」

明治18年(1885)、地元住民の有志により秀吉生誕の地に創建された。明治34年(1901)には神社の一帯を中村公園として整備。敷地内には秀吉と、同じく名古屋市中村区出身の加藤清正の記念館などがある。毎年5月18日直前の日曜には例祭(太閤まつり)を開催。

住所:愛知県名古屋市中村区中村町茶ノ木(中村公園内)/営業時間:8:30~16:30/定休日:無/アクセス:地下鉄東山線中村公園駅から徒歩10分

秀吉が清正に命じて建立させた「常泉寺(じょうせんじ)」

産湯の井戸。
産湯の井戸。

秀吉没後の慶長年間(1596~1615)、秀吉の命を受け、加藤清正が円住院日誦上人を招いて生誕地に開山。ご神体の豊太閤像は当初大坂城に祀られていたが、清正が現在の地に鎮座。境内には産湯の井戸や秀吉手植えの柊も。

住所:愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47/営業時間:8:00~17:00/定休日:無/アクセス:地下鉄東山線中村日赤駅から徒歩10分

文=長屋良行 写真=豊國神社、名古屋観光コンベンションビューロー
『旅の手帖』2026年3月号より