稲葉俊郎 (いなば としろう)
1979年、熊本県生まれ。医師、医学博士、産業医、作家。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM) 特任教授。湯治、芸術などが融合したウェルビーイングの場の研究と実践に関わる。
メンタルの不調には温泉で数日養生するのが一番
医師になってから、実際の現場がイメージと違うなと感じながら働いていました」と話す稲葉先生。湯治に可能性を見出したきっかけは、心の問題に対する治療方法への違和感だった。
「私は主に心臓病の治療をしていましたが、心臓病にも結局は心の問題が大きく影響していると感じていたんです。病の一番の原因は大雑把にいえばライフスタイルで、複雑な要因はありますが、多少なりとも心の問題に行きつきます。その場合、西洋医学の枠内だとたいていは精神科や心療内科で薬を出すことになりますが、依存性のある薬に頼ることに矛盾を感じたし、患者さん自身の生きる力が失われます。その前にやるべきことが山のようにあるのではないかと思っていました」
では、自分自身が心のバランスを崩したときにはどうケアしているのか。そう考えたときに、思い浮かんだのが温泉だ。
「温泉の力を最初に実感したのは、大学で山岳部に所属していたとき。登山のあと、温泉に浸かってから帰るだけで体力の回復がてきめんなんです。温泉は伝統的にも体を癒やす手段として使われていたし、その効果を実体験をとおして感じていました。温泉医学を調べると、うつ病など心の病への適応が2012年から認められていました。それで、患者さんにも温泉や転地療養を勧めるようになったんです」
自然治癒力を高めるため、自分自身に目を向ける時間を
医師として「治す」という行為を極めてきたが、人間の土台の「治る」力を高めることができないか。
湯治に可能性を感じるのは、治療というよりも未病や予防に対してだ。イライラしたり眠れなかったりと心の異変を感じたときの対処として「早めに温泉でも行こうか」と、予防医療のような位置づけで使われるようになるとよいのではないかという。
「『治す』力は医師の技術など外部の力に依存しますが、『治る』力は、誰にでも備わっていて内部にある自然治癒力です。しかし、治る力を邪魔している要素があり、それを自分自身がつくり出してしまっていることも多い。他人のことや世間体を気にする人は自身のケアを忘れがちで、日本人は特にそういった状況に陥りやすい。自分のためだけの時間をつくることを提案したいです。年に数回、健診だと思って自分の体の異変や違和感に耳を傾ける機会を設けるのがいいと思います」
とはいえ、自分の時間をつくるならどこで何をしてもいいというわけではない。場所を変えて環境を整えたり、人間関係や考えごとから距離を取ったりすることが大切だ。
「温泉は、自然がつくったメイドインアースの病院なんです。温泉が湧く場所には地球のエネルギーがあり、土地の歴史があり、水の流れがあり、そこへ人や動物が集まってくるという必然性がある。そういう当たり前のことに気づくためにも、自然のなかに身を置くのが重要です」
療養を目的とした温泉利用型健康増進施設など、厚生労働省が認定した施設も全国にあり、豊かな自然に包まれた場所も多い。そういった場所で自然体験をするだけでも幸福度が増すという研究結果がイギリスで出ているのだとか。
「ただ行って消費するだけで帰ってくるのではなく、自然の中で川の流れや鳥の声を意識したり、そのときの自分の感情や感覚を再確認したりすることで、本当の養生やリトリートにつながりますよ」
もちろん、自分の時間や自然環境だけでなく、温泉に浸かること自体にも効果がある。
「温泉に浸かることで内臓が温まり、浮力がかかって内臓のマッサージにもなります。安産の湯など、温泉の効能は古くから伝説のように言い伝えられていますが、それらはメカニズムはわからないけど長い歴史のなかで経験的によくなることがたくさんあったから。『エビデンス・ベースド・メディスン』(科学的根拠に基づく医療)とよくいわれていますが、歴史に勝るエビデンスはないと思っています。ただ、現代の人たちはそれをどうしても信じられなくて、科学的に証明されているのかどうかが気になってしまう。頭から入るのではなく、まず感じるところから始めてほしいですね」
では、実際に身心のケアのために湯治へ向かう場合、どこへどの程度行くのがよいのだろうか。江戸時代には「七日一巡り」という考え方があり、湯治は7日間を最小単位として三廻り(21日間)行うべきだとされていた。それだけの日数は難しくても、現地で1日過ごせるよう、最低でも2泊3日は確保したい。また、行き先も湯治の入口としては近めの温泉地でよいが、リトリートのためにはなるべく遠い場所がおすすめ。不便な場所へ電車やバスに揺られながら向かう、空白の時間にも意味があるという。
「点と点をローカルの線でつないでいくこと自体に治療的な意味があり、わざわざ秘境に行くことでそこにある宿への愛や思いやりも湧きます。また、不便だった頃を追体験することで、原点に戻る意味もあるでしょう。社会へ提案したいのは、企業の福利厚生で温泉に行く文化をつくること。組織としてやったほうがアイデアの活性化になるし、社員の健康にもつながります。食事も、湯治に対応した体にいいものを宿が提供できるようになるといいですよね」
大袈裟に捉えなくても大丈夫。まずはその日のお風呂から
しかし、仕事で大変な状況なのに何日も出かける余裕なんてない……と思う人がほとんどだろう。そんなとき、湯治の第一歩として試したいのが、自宅のお風呂。
「フィンランド発祥の精神医療では、基本的に24時間以内に心のケア対応をするという原則があります。体のケガは見た目でわかるので救急ですぐに対応すれば、傷の治りも早い。でも心の傷は先延ばしにしてしまうから、余計複雑になるんです。24時間以内に対応して、言葉で表現するのが大事。“マインド風呂ネス”と呼んでいるんですが、家のお風呂でいいからその日の夜に湯に浸かって疲れをゆっくり洗い流すことは本当にいいセルフケアなんです。積もり積もったものを洗い流すためには、温泉地で1週間くらい過ごす必要があるかもしれませんが、その日のダメージはその日のうちに対処するのがおすすめです」
人間の自然治癒力を活性化させる場所として稲葉先生がいま興味をもっているのは、和歌山県など紀伊半島のエリアだという。
「土地そのもののエネルギーが強い場所と考えたとき、紀伊半島というのは日本の中で一番の要です。熊野三山、高野山、伊勢神宮と聖地が勢ぞろいしている。さらに、地中には巨大な温かい岩盤があるから、どこを掘っても良質な温泉が出るといわれていますね。地球レベルだとそういう場所はたくさんありますが、日本人はいかにそれを大切に育んできたかがわかります」
医師として、「治療する」ことだけを目的にせず「元気になってほしい」と考えてきた結果、辿り着いた温泉という場所。「ある意味当たり前のところに戻ってきているんです。でも、いろんな紆余曲折を経たからこそ古代の叡智に気づきました。伝統を現代に蘇らせる温故知新こそが最先端だと思いますね」。
自己治癒力や自然治癒力を尊重することで、医療の流れは大きく変わるはず、と稲葉先生は言う。「旅は心のケアに必須で自己治療ともいえますし、旅によって人は生まれ変わるのだと思いますよ」
在住の長野県で稲葉先生のお気に入り温泉
『星野温泉 トンボの湯』軽井沢の四季の魅力を存分に堪能
大正時代の開湯以来、文人墨客にも愛されてきた星野温泉の日帰り入浴施設。深めに造られた湯船で、源泉かけ流しの湯に浸かれる。
☎0267-44-3580
10:00〜21:15受付、無休(冬期休あり)。
1550円(年末年始を除く12~3月は1350円)
泉質/単純温泉
長野県軽井沢町星野
北陸新幹線軽井沢駅から車15分
『菱野温泉 常盤館』急勾配を登った先には絶景が待つ
湯治場としての長い歴史をもつ菱野温泉。登山電車で向かう露天風呂「雲の助」は、八ヶ岳や富士山まで見通せる眺望も見事。
☎0267-22-0516
35室
泉質/単純温泉
長野県小諸市菱平762-2
※日帰り入浴あり
しなの鉄道小諸駅から車12分(送迎あり、要予約)
『角間温泉 岩屋館』岩の中に入り込んだような空間
角間渓谷のそそり立つ岩壁に囲まれ、真田家が汲みにきたという伝承が残る名水も湧く。2種類ある源泉のうち冷鉱泉は飲泉可能だ。
☎︎0268-72-2323
15室
泉質/ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩温泉、含二酸化炭素-ナトリウム・カルシウム・マグネシウム-炭酸水素塩冷鉱泉
長野県上田市真田町長2868
北陸新幹線上田駅からバス34分の真田下車、送迎車(要予約)10分
いのちを呼びさます考え方とは?
新著『肯定からあなたの物語は始まる 視点が変わるヒント』(講談社)では、悩みも成長の糧に変えられる「いのちの力」の重要性を説く。伝統医療や民間医療も広く修めた稲葉先生だからこその視点が詰まった一冊だ。
取材・文=中村こより 撮影(温泉を除く)=岩堀和彦
『旅の手帖』2026年2月号より





