そもそも本郷在住の八百屋八兵衛の娘お七が寺小姓小野川吉三郎とわが身を焦がす恋に目覚めたのは、天和2年(1682年)12月28日の大火で一家が焼け出されて駒込の吉祥寺に避難したからでした。
吉三郎が寺で指の棘を抜こうとしていたところをお七が抜いてあげたとき、強く手を握られお七の心に火が付いた。
それから二人は恋文をやりとりし、厳しい人の目を掻いくぐり契りを交わすことに。
しかし親の手前、吉三郎と会うことも儘ならないまま、正月25日に焼け跡の普請も終わり吉祥寺から引き揚げたある風の強い夕方、ふっとお七の頭の中にある考えがよぎります;
《家に火をつければ、正月のように吉祥寺に行き吉三郎に会えるかもしれない…》
東京メトロ南北線本駒込でおり、階段を上がって地上に出ると今にも泣きだしそうな雲行き。降らないで~!
駒込の吉祥寺は江戸時代には曹洞宗の学寮が置かれ、常時1000人位の学僧が集まったこともあり、第二次大戦で殆どが焼失したとはいえ、今でも200m四方ほどの広さがあります。写真は山門に入ってすぐのところから本堂方面を写しましたが、本堂にお参りに向かっている人がまるで豆粒のよう、広さがわかります。
お七と吉三郎はこんなに広いお寺のどこでどんな話をしていたのでしょう…
小一時間ほど吉祥寺を見て回った後、てくてくと赤目不動などを見ながら圓乗寺に30分位で着きます。
結局、お七は火付けで奉行所に引き立てられ、引き回しのうえ火焙りの刑となってしまいます。年齢を偽るなど、取り調べに対して乱心したふりをしてまで吉三郎との密会を否定するお七の凛とした態度は改めて多くの人の涙を誘いました。
本郷の圓乗寺は今では完全個室完備の納骨堂を備える超近代的な寺院です。好色五人女ではお七は天和の大火の時には吉祥寺に退避したとありますが、圓乗寺では当寺にきて山田佐兵衛という小姓と恋仲になったとしています。事実、吉祥寺は圓乗寺より1キロほど北にあり、大火事の時に避難民で大混雑の中、八兵衛一家は荷車を引いて更に北へ進むでしょうか?
泣き出しそうな空を見つつ、東京メトロ南北線東大前駅から一気に目黒駅に進みます。天気はどうかなあ?
その頃お七を思いつめて病気になってしまった吉三郎は、お七の死を知らされていませんでしたが、百か日に寺の境内でお七の卒塔婆を見つけ愕然とし自分も死のうと思いました。しかしお七の親から、出家して跡を弔ってほしいというお七の最後の言葉を伝えられて出家することに。西運と名を改め、お七の菩提を弔うために念仏を唱えながら諸国巡礼の旅に出ます。江戸に戻った西運は、目黒の明王院に住しさらに目黒不動尊と浅草浅草寺へ隔夜日参一万日という念仏行を開始し、その満願の日の夜、お七が夢枕に立って成仏した事を告げました。
明王院は明治13年に廃寺になりますが、西運縁の仏像は隣の大圓寺阿弥陀堂に移されて大切に保管されています。そこの来迎阿弥陀三尊像の前にいらっしゃるお七地蔵は、写真中央の白い菊の山の後ろに僅かに映る、身体を多少左へむけた下向き加減のお顔が特徴的です。
西運はその後得た浄財で行人坂を石畳に改修したり、目黒川に雁歯橋(太鼓橋)を架けるなど善行を積みました。
お七の足跡辿りの最後に行人坂を歩いていると、お七の涙雨か、とうとうぽつぽつと雨が降ってきました。




