前田利家(達人)の記事一覧

前田利家
達人
前田利家
名古屋おもてなし武将隊
名古屋おもてなし武将隊が一雄。
名古屋の良き所と戦国文化を世界に広めるため日々活動中。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』をきっかけに、戦国時代の小話や、戦国ゆかりの史跡を紹介している。
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江戸時代の始まり。徳川殿の天下はいつから?権力の象徴「天下普請」について語ろうぞ
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。新年あけましておめでとうさん、本年も皆に面白き歴史や武士の話を確と届けていく所存である!年が変わったということは大河どらまも新たになるということであるわな。今年の『べらぼう』は江戸時代の版元、現世で申すところの出版社を営んだ蔦屋重三郎殿を主役として町人視点の江戸時代が描かれるようじゃ。徳川殿が群雄割拠の戦国時代を終わらせ、260年にわたる泰平の世を実現されたことで、のびのびと生きることができた民たちによって多くの町人文化が華開いたのじゃ!戦国時代を武士の世とするならば、江戸時代は町人の世といっても過言ではないわな。『べらぼう』ではどんな描かれ方をするのか。楽しみじゃな。 して、新年一本目の此度の戦国がたりでは我ら武士に深いかかわりのある「江戸時代の始まりと天下普請」について、記して参ろうではないか!いざ参らん!
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前田利家も里帰り!故郷・愛知県荒子を巡る「犬千代ルート」を案内いたす!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。早いものでいよいよ年の瀬、令和6年もこのさんたつにて様々な歴史の話を紹介して参った。本年最後となる此度の戦国がたりは折角だで“散歩の達人”らしく、名古屋の街へ繰り出してまいろうではないか!それでは早速、いざ出陣!
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織田信長、伊達政宗、明智光秀……戦国時代の歌はいかなるのものか。歴史に残る様々な歌は、どんな思いで詠まれたのか?【後編】
皆々、息災であるか、前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの時。此度は歴史に残る歌、戦国編を記して参ろうぞ。 前編では藤原道長様の望月の歌と、歴史に残る三つの歌を紹介したわな。此度は戦国編であるが、皆は「戦国時代の武士の歌」といえばやはり辞世の句が思い浮かぶのではないか?戦国の乱世で武士が死に際したときの最期の言葉、これにはそれぞれの生き様が色濃く顕れるでな、辞世の句には皆にも注目してほしいところではある。のじゃが、此度は辞世の句以外の戦国武将が残した「歌」について紹介いたそう。ちなみに儂(わし)は武士の辞世の句についても記しておるで、読んでおくがよかろう!
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平安時代の恋の歌に忠臣蔵の辞世の句。歴史に残る様々な歌は、どんな思いで詠まれたのか?【前編】
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。本年の大河ドラマ『光る君へ』にて、ついに道長様が「望月の歌」をお読みになったわな!『このよをば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』天皇家の外戚として実権を握り藤原家の最盛期をもたらした道長様が詠んだ「満月に欠けたところがないように天下は余すことなく自分のものになった」という意味の一句として現世には伝わっておる。然りながら、道長様としては「この世」ではなく「この夜」と詠んだつもりで、「この穏やかな夜のような世の中にしていきたい」であったり、字面の通り「満月の良い夜だなぁ」といった意味にも捉えられるで、誠に何を思ってこの句を読まれたのかは道長様のみぞ知ることであろう。ちなみにこの歌が読まれたのは新暦で11月26日のことである。ということで此度の戦国がたりでは歴史に残る様々な歌について取り上げてまいる。儂(わし)らは様々な場面で、様々な歌を詠んだ。どんな思いで歌を詠んだのか、それぞれの歌を追いかけようではないか!遠い時代の話ながら身近にも感じられる恋の歌、政治的な思惑を伝えるための歌、そして武士の覚悟と生き様を示した歌と、異なる魅力を持つ歌を、我が独断で三つほど選んでみた。
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我らが「名古屋おもてなし武将隊」15周年である。前田利家、改めて名乗ろうぞ!
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。これよりは前田利家の戦国がたりの時である!「さんたつ」にて現世を生きる皆々に、我らが生きた戦国時代の蘊蓄(うんちく)やおもしろき逸話を伝えておるこの戦国がたり、うれしき事にまもなく開始から2年となるわな!この連載を訪れてくれておる者たちのなかに、儂(わし)の記事は幾度か読んだことあるが、そもそもこの武士は誰なんじゃと思うとる者はおらぬか?ということで此度は久々に儂の自己紹介と、我らに関する案内をいたそうではないか!それでは、いざ参らん!!
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戦国大名たちの起源をひもとく! 源氏・平氏・藤原氏と戦国武将の関係
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。令和6年の大河ドラマ『光る君へ』では紫式部が『源氏物語』を記す過程が描かれるとともに、藤原道長様を中心に繰り広げられる権力争いも見どころの一つであるわな。大河ドラマで描かれておるとおり、藤原家は道長様の時代に最盛期を迎えたのじゃが、始まりは飛鳥時代まで遡る。現世の皆が「虫殺す(645年)」の語呂合わせで覚えたと聞く“大化の改新”にて活躍した中臣鎌足が天智天皇より藤原姓を賜ったのじゃ。ちなみに、645年は天智天皇(当時は中大兄皇子)や中臣鎌足が時の権力者、曽我氏を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)が起きた年。政治体制の刷新は翌年の646年に始まったとされるで、近年は大化の改新とは645年ではなく646年で教えられることが増えてきたようじゃな。
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乱世が始まったのは寒さが原因? 気温に左右された戦国時代の戦について
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。長く苛烈であった2024年の夏も10月に入ってようやっと終わりを迎えようとしておる。現世では地球温暖化の影響で段々と暑くなっておるそうじゃな。 我ら名古屋おもてなし武将隊は週末に名古屋城にて演武を執り行っておるのじゃが、今年の夏は熱中症の危険のために中止になることが多かった。現世では暑さによって様々な問題が起こっておるが、我らが生きた戦国時代は寒さによって命が危ぶまれる時代であった。現世とは対極の問題を抱えておったわけじゃ。此度は我らの時代の気温について話してまいろうかのう。
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関ケ原月間である!北の関ケ原、上杉家と最上家、そして伊達家の慶長出羽合戦について語ろうぞ
皆々!今年もついに、関ケ原の時期がやって参ったわな!!天下分け目の戦として名が知られておるこの戦が起きたのは、慶長5年9月15日。新暦で申せば1600年10月21日である。現世では旧暦の9月15日から10月21日を関ケ原月間などと申すこともあるそうじゃが、戦いの舞台となった岐阜県関ケ原町ではこの時期えらくにぎわっておって、様々な催しも行われておる。この戦国がたりでも関ケ原に足を運び、陣跡や決戦地、『岐阜関ケ原古戦場記念館』を紹介致したわな。関ケ原の戦いの経緯や古戦場のくわしき話はその時の記事を読んでもらうとして、此度はもう一つの関ケ原、について話してまいろう。それではいざ参らん!!
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鉄砲と弓はどちらが強いのか!? 種子島の伝来が変えた戦の在り方と、城郭から見えてくる武器の移り変わり
皆々、息災であるか。前田又左衛門利家である。暦の上では秋となったがまだまだ暑き日が続くわな。いつまでが夏で、いつからが秋なのか。はっきりとしないままゆるゆると移ろいゆくのが季節といえよう。我らが生きた歴史や時代も季節と同じように段々と少しずつ進んでいく、あるいは積み重なっていくもの。であるが、しばしば技術は急速に発展し、一つの出来事が大きく時代を変えてしまうことがある。それ以前とそれ以降では暮らしや文化が全くの別物になる、まさに転換期と呼べるもので、鉄器や火薬の発明や産業革命が最たる例であろう。日ノ本における大きな転換期もいくつかあるが、その中の一つに「鉄砲の伝来」が挙げられるであろう。各地で戦が起こり、混乱を極めておった戦国期の日ノ本を大きく変えた鉄砲。こたびの戦国がたりではそんな話をして参ろうかのう。
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まだ間に合う、夏の名古屋の楽しみ方!『西の丸御蔵城宝館』と『名古屋市科学館』を案内!
皆々、夏は楽しんでおるか?8月も終わりに近づいて参ったが、まだまだ暑いわな。夏の盛りを避けてあえて9月に長期の休みを取る者もおると聞く。特に今年はえらく暑かったで外に出られなかったという者も多いのではなかろうか。故に此度は、名古屋の観光地を二つ紹介して参ろうではないか!暑い日でも楽しめる場所故、夏の思い出つくりの参考にしてほしい!いざ参らん!!
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