遡ること約420年、本能寺の辺後より縁のあった徳川家康と摂津国佃村(大阪市西淀川区佃町)の漁師たち。徳川家康が1603年、33人(34人という説も)の漁師たちを江戸に呼び寄せ、江戸城の食糧事情に参入させました。
その後、隅田川の河口付近にあった小さな島「石川島」の傍にあった土地を拝領し、地盤を整えたのち、1644年2月に完成。かつての故郷から字を取り「佃島」と命名しました。
その頃には、33人だった漁師の人々の一族は4倍以上に増加していたと言われています。
修繕されより鮮やかになっておりますが、昔と同じ位置にかかる橋「佃小橋」の紅が、曇天というのもありややくすんだ色合いの風景によく映えます。
船着き場の水路も、基本的にはそのまま活用され現代に至っているとのこと。
佃島完成後、漁師たちの故郷より分社された「住吉神社」の本殿は、江戸城と摂津国の方角を向く設計されております。徳川家康公と故郷、双方への敬意がひしひしと伝わって参りました。
立ち話をする人達、お揃いの色の帽子を揺らしながらお散歩する子供たちと先生の張りのある声、慣れた道をすいすいっと走る車。
その傍らには、戦災の被害が比較的少なかったからか、色あせても尚生命力を放つ井戸のポンプ。
人が一人通るのがやっとという路地にあえて踏み込めば、どこからともなく醤油やお砂糖が鍋肌にこすれる薫香が。
塩辛く味付けした保存食だった塩味の煮物は、いつしか甘辛い味付けに変化し、令和になっても尚胃袋を刺激します。
ほんの少し両手を広げながらバランスをとり、うろうろと路地を彷徨う中で思うのは、佃の強かな生命力。
日ごろ台所に立つ私だから、というのもあるかもしれませんが、醤油や砂糖に火が入る香りは、美味しい食卓の香り。即ち、日々の活力となる食事へと直結します。
なぜ活力が必要なのか。それは、目的はなんであろうと今日を生きる為。
それが調味料の基本ともいわれる「さしすせそ」のうちの二つから導き出されたのです。
路地裏、穴場、知られざる…といったワードに心惹かれる方も少なくはないはず。
けれど、そういう場所こそ常に過疎化や老朽化といった問題と向かい合わせになっているのも現状。
新参者が気安く語るものではないという意見もあるかもしれませんが、誰かが何かしらの話題に上げなければ、本当に存在すら忘れられてしまうという問題も間近で見てきました。
だからこそ、少しでも気軽に訪れてほしいと思います。
そして、わくわくするような「ノスタルジー」と一緒に、ちょっとした冒険を楽しんでくださいね。
その中で、ひとつでもその場所のお気に入りを見つけらてもらえたら…と、いちローカル民は思うのです。