さて、この作品のモデルとなった五重塔ですが、実は古くは長耀山感応寺、現在の護国山天王寺(写真)の敷地内(今の谷中霊園)にかつて実在したものでした。
高さは十一丈二尺八寸(34.18m)あり、関東で一番高い塔だったとか。昭和32年7月には放火により焼失してしまったとの事。何とも残念でなりません。

ここは五重塔が建っていた場所です。
さほど広くはない印象です。
実際に建っていた場所で、小説のクライマックスを思い浮かべてみましょう。

いよいよ落成式間際となった夜に江戸の街を暴風雨が襲う。
主人公十兵衛は、自分が大工として普請の一切を任され、命懸けで建てた塔が倒れるならば生きてはいられぬと五重塔の第五層の戸を開け、猛風と対峙する。塔の下では一時は受注のライバルでもあり、これまで恩義もある親方が不測の事態に備えて見回りをする。

さて、自分も荒れ狂う嵐の中に立っていると考えてみましょう。五重塔と二人の職人の姿は、皆さんは見えるでしょか。

五重塔で十分に空想を巡らしたら、次のスポットへ向かいます。交番の角を右折して、ぎんなん通りを抜け、霊園の外側に沿って進むと曲がり角に案内板(写真)が立っています。
そこは幸田露伴の居宅跡なのです。その説明によると「明和九年(1772)二月に焼失、寛政三年(1791)棟梁八田清兵衛らにより再建された。露伴は当地の居宅より日々五重塔をながめ、明治二十四年十一月には清兵衛をモデルにした名作『五重塔』を発表した。」のだそうです。
道路の左側が霊園です。

写真は旧居跡前付近から道路の反対側霊園方向を撮ったものです。遠くには五重塔ではなくスカイツリーが見えています。
五重塔は、恐らくスカイツリーより右手の二本の木が並んだ辺りに見えたのではないかと思います。当時露伴が見た風景はどんなだったのか、思いを馳せてみましょう。

最後に、せっかく谷中霊園に脚を運ぶなら、著名人のお墓にも寄りましょう。

第15代将軍徳川慶喜をはじめ、澁澤栄一、鳩山一郎のように国政や産業育成に携わった方々の他、日本画家の横山大観や鏑木清方、箏曲家の宮城道雄(お正月によく聴く「春の海」を作曲した方です)、源氏物語の現代語訳で知られる圓地文子のお墓もあります。

この写真は浅田宗伯のお墓です。台東区観光ボランティアの会のウェブサイトによると「のどの薬、浅田飴の処方をした医師。13代・14代将軍の御典医。明治には?」とあります。そんなに昔からある薬だったのですね。知りませんでした。

なお、あくまでも墓地なので、花や線香を手向けないまでも故人に失礼のないよう振る舞いたいものです。

今回は梅雨でも読書を楽しめば良いと考え、読書後には作品や作家に関連する場所を訪れてみる事を、本サイトの読者諸氏に提案させていただきました。