彰義隊士は朝敵とされたため、遺体は長く放置されたままだったそうです。円通寺のサイトによると『彰義隊士の遺体を当寺二十三世「大禪佛磨大和尚」の決死の覚悟にて供養した事により、当寺に官許が下り、遺骸二百六十六体を上野山内にて荼毘に附し当寺に埋葬した。』そうです。

写真は「天野君八郎碑」(右側)と「天野八郎供養碑」(左側)です。後ほど紹介する現在の宮地交差点近くの伊藤七郎兵衛の家で宮に対面し、警護を申し出るが、却って武士がいることで探索の網にかかる恐れがあるとして竹林坊に断られる場面で作品に登場している人物です。彰義隊の副頭取でしたが、頭取の澁澤成一郎が天野との意見対立により彰義隊から離れ、上野戦争では実質上のリーダーでした。戦では生き残りましたが、その後捕らえられて獄中で病死した、または処刑されたたと謂われています。

なお、円通寺には「彰義隊奮戦図絵巻」所蔵されているそうです。同寺のサイトで一部画像が閲覧できますので、黒門が攻撃を受けた様子を伺い知る手助けになります。

出来たらちょっと寄ってみたいのが荒川区立南千住図書館の一階にある「あらかわふるさと文化館」(円通寺から徒歩6分)です。区内で出土した土器をはじめ郷土資料が展示されている中に、水害の様子を写した写真があります。

輪王寺宮は朝廷軍の探索から逃れるため、寛永寺から根岸(台東区)を経て三河島村、下尾久村、上尾久村など今の荒川区内を転々と移動しました。大雨が降り続いたので、時には腰まで浸かるほど水位が高くなり、皇族である宮の移動が如何に困難であったのか、その水害の写真から想像したいと思うのです。

ご存じの方も多いと思いますが、現在の赤羽岩淵辺りから葛西臨海公園横の河口まで続く荒川放水路は、明治44年から開削が開始され、昭和5年に完成しました。

荒川下流河川事務所のサイトによると、荒川(今の隅田川)沿川では頻繁に洪水に見舞われ、明治元年から43年まで10回以上もの床上浸水が発生し、特に明治43年は甚大な被害だった事を契機として放水路の基本計画が策定されたとの事です。

写真は、この文学館にある復元家屋と路地のコーナーです。昭和41ごろの設定です。昭和念とすると作家吉村昭が「星への旅」で太宰治賞を受賞した年になります。また、同年には長篇「戦艦武蔵」が「新潮」に一挙掲載され、単行本がベストセラーとなったと吉村昭記念文学館の略年譜にあります。

吉村昭がこれらの小説を書いた頃は、荒川区民ではないと思いますが、住まいは、このような街にあったのでしょうか。

さて、その次は、是非寄って欲しいスポット、荒川区立図書館のゆいの森あらかわ(都電荒川二丁目電停から徒歩2分、あらかわるさと文化館から徒歩18分)です。荒川区にゆかりがある作家なので「吉村昭記念文学館」がこの図書館内に設けられています。ここには昭和53年から平成18年まで使用した書斎を再現したコーナーがあり、実際に使用した書籍がそのままの配置で展示されています。また、他のコーナーでは小説「戦艦武蔵」や、「陸奥撃沈」の自筆原稿など貴重な資料も展示され、無料で誰でも気軽に見学できるのでオススメです。更に「彰義隊」関連の場所を示した荒川区内の地図があるので、今回のテーマには良い手掛かりになります。写真の投稿許可が得られなかったので、ご紹介できないのが残念です。

さてここからは、地元ならではのスポットです。明治通りと道灌山通り、尾竹橋通りが交わる宮地交差点(JR三河島駅徒歩6分、都バス荒川四丁目徒歩0分、ゆいの森あらかわ徒歩10分)です。

この近所に輪王寺宮の逃避行を手助けした名主の松本市郎兵衛や植木師の伊藤七郎兵衛、また彰義隊士たちを職人姿に変装させるなど便宜を計った紺又という染物商の家はこの辺りにあったようです。

現代では容易に当時の様子を伺い知る事はできませんが、名主らに匿われたものの、一所にとどまることもままならず、雨に打たれながら泥水の中を舟で落ちてゆく宮の姿を想像してみたいと思います。

さきほどご紹介した荒川区立荒川ふるさと文化館編集の「三河島町郷土史」には、名主の市郎兵衛が官軍(東征軍)の取調べの対応として彰義隊の逃亡に関する情報や遺留品の引き渡しをするよう近隣の村役人へ通達した取り次ぎ状の内容が掲載されています。「廻状を以て得御意候、就ては只今大總督宮様御守衛、備州様御分藩、筒井逹之介様、成田縫殿介様、御兩人私方へ御廻村あそばされ、(以下略)」日付は慶応四辰年六月八日とあるので、一行が浅草方面へ移動してから3週間くらい後のもので、とても興味深い記述です。

明治通りを三ノ輪駅方向に2分程戻ると物語に登場する宥應が前住職であった観音寺が近くにあります。この付近で彰義隊と官軍が衝突し、1人の官軍の武士が斬られ、このお寺に葬られた(荒川ふるさと文化館「吉村昭追悼 彰義隊とあらかわの幕末」)そうです。

このお寺の案内板には、今回の話とは関係はありませんが、面白い情報がありました。なんと、この辺りは鶴の飛来地だったそうで、鶴の餌付けが行われていたとのこと。そのため、将軍家の鷹狩が行われ、「鶴お成り」と称してとらえられた鶴は天皇に献上される慣わしで、この観音寺か法界寺が御膳所にあてられていたとのことです。都内に鶴が飛来するなんて現代からはとても想像がつかないですね。

今回の終点は、写真の華蔵院(都電宮ノ前電停徒歩4分)です。都電から見える尾久八幡神社の裏手にあります。上尾久村の名主江川佐十郎の屋敷はこの辺りにあったとされ、お寺のすぐ裏には隅田川が流れています。

作品では、三河島村よりも水位が高く、宮は腿まで水に浸かりながら土蔵に入った。土蔵は一段高くなっているので中は浸水していなかったという内容の記述があります。

お寺の案内板によるとここでは、寺子屋江川堂が開かれ、それが明治期に私立田辺小学校、そして現在の荒川区立尾久小学校になったとのことです。

さて、とても暑くなってきたので、昨年リニューアルオープンした尾久図書館(華蔵院と宮ノ前電停の真ん中に位置します)で涼みながら資料を紐解くと良いのではないかと思います。

今回は、徒歩での移動が多いため、雨でも楽しめるのかは、どれだけ「彰義隊」にのめり込んだか次第かもしれません。まずはこの一冊、手に取ってみてはいかがでしょう。そして歩くときは熱中症にご注意を。

当初歩いて廻る事を念頭に書いてみましたが、酷暑のため、バスと都電を利用して廻る事とし、以下の順序に変更するのも良いと思います。
宮地交差点→円通寺→(荒川ふるさと文化館→)→ゆいの森あらかわ→華蔵院→尾久図書館

最後に、少し感想を書かせていただきます。今回の投稿を書きながら、普段何気なく目にしているお寺が想像もつかない歴史を秘めていることに驚きました。

また、作品「彰義隊」では、朝廷側の大総督有栖川宮に対する輪王寺宮側の視点によるアナザーストーリーという側面もあり、世の中を多面的に捉えていく事も重要であると改めて気づかされました。

皆さんは本から、そして足、目と耳で何を感じるでしょうか。