スタートは、明治8年創業の韻松亭でランチを。
建物は、これこそ老舗という佇まい。
靴をあずかっていただいて、案内されたのは、純和室。
外の光が届くような造りになっています。
足もとは掘りごたつで、楽に過ごせます。
予約したランチは、かごに入ってやってきました。
かごの中身を説明してもらってから、いただきます。
竹の器にはいった濃厚な豆腐や、これは!と感動の湯葉、手作りの赤いこんにゃく。
このお店の料理は豆菜料理というのですね。
豆から作るあれこれを、素材を厳選して、手作りで作っているそうです。
珍しくて美味しいものを少しずつ食べる楽しさ!
「マンゴーはどれにはいってるんだっけ?」「茶碗蒸しの中のこれはなに?」
などざわざわしながら、豆のごはんも、最後の麩の菓子まで、楽しくおいしくいただきました。
帰りにのぞくと、大きな窓に面したカウンターや、椅子の席もあるのでした。
こちらはスタイリッシュ。
人数に応じて、ちょうどいい席に案内してもらえるようです。
江戸時代には、上野の山は寛永寺のものでした。
高僧の天海が、不忍池を琵琶湖に、上野の山を比叡山に見立てた、壮大な宗教空間をプロデユース。
徳川家との関係が深く、家康をまつる上野東照宮が作られ、将軍家も大名もやってくる場所でした。
明治時代になり、寛永寺はぐっと縮小されて、上野の山は公園や美術館、博覧会会場に。
明治政府は、公園を訪れる人の飲食施設を、民間人に造らせました。その一つが韻松亭だそう。
韻松亭の隣には、寛永寺時代の鐘楼が残されていました。
当時の博物館館長、町田久成は、鐘が「松に響く」さまを愛でて「韻松亭」と名づけたそうです。
写真は、韻松亭の名前の由来となった鐘楼です。
お店を出てすぐの小山から、こんな写真が撮れました。
小山には、一度会ったら忘れられない大仏の「顔」がいらっしゃる。
関東大震災で本体から落下し、本体は太平洋戦争で供出されてしまった、という波乱にみちた顔。
「これ以上は落ちない」ということで、受験生に人気らしい。
シュールすぎる絵馬がたくさん下がっていました。
大仏のすぐ前には、昭和40年代に、大仏復興の願いをこめて建てられたパゴダ塔(仏塔)。
中には、もとは上野東照宮にあった薬師三尊像が祀られています。
手書きの説明書きには、「薬師三尊像は、もともと寛永寺にあったが、明治初期の神仏分離令によって寛永寺に移管されていた」
大仏も薬師三尊像も、歴史の荒波にもまれた方たちが住まっている小山なのでした。
次は、上野東照宮の隣にあるぼたん苑へ。
咲いていたのは冬ぼたん。
一つずつ藁の囲いの中に入っている姿は、箱入り娘みたい。
お行儀のいいお嬢様風から、元気に藁から飛び出ているもの、びろーんとしてしどけないものまで、いろいろ個性が出ていました。
意外と広くて、咲き始めた紅梅や蝋梅も楽しめました。
冒頭の写真のように、上野東照宮の五重塔を背にした写真は、どこかの古都のよう。
上野東照宮に拝観料を払って入ります。
樹齢600年の楠や、豪華絢爛な本殿など、圧倒されるものばかり。
でもインパクト一番は「狸」でした。
小さな鳥居のある「栄誉権現」には、こんな看板が。
「四国八百八狸の総帥、奉納された大奥で暴れ、追放後、大名、旗本、諸家を潰し、大正年間に本宮に奉納され
た悪行狸、他を抜く(たぬき)強運開祖として信仰が厚い。縁起日は五の日」
なんのことやらよくわからないけれど、悪行狸がなぜここに?
狸様は、ガラスのケースの中でライトアップされていました。
写真は上を向いてうそぶく狸様。
好きすぎて、よく拝みました。強運よろしくお願いします。
見上げると、五重塔に夕日が当たってオレンジに。
五重塔は、上野東照宮とは壁でへだてられ、上野動物園の敷地の中にあります。
明治時代のはじめに、神仏分離令のため取り壊されそうになったらしい!
当時の宮司が「寛永寺の管理のものである」と国に申し立て、寛永寺のものに。その後、管理が困難なため、東京都のものになったそうです。
大変でしたね、五重塔。ここにも歴史の荒波が。
ちょっと前までは、美術館を見て、谷中に抜けるコースがお気に入りでした。
最近は、江戸時代やもっと前のあれこれが眠るこのあたりを探検中。
こんなにいろいろ見たのに、上野駅まではあっという間。
見どころ濃縮な上野の散歩でした。