ひっそり、心を取り戻す場所
喫茶店が好きだ。
チェーンのコーヒー屋さんも大好きだけれど、それぞれの土地にしか存在しない、街に根付いている喫茶店という場所にとても魅力を感じる。
吉祥寺にある武蔵野珈琲店。
初めて訪れたのは大学生の頃。当時付き合っていた恋人と一緒だった。テレビか何かで、芸人の又吉さんが常連のお店だという知識だけ持って、ミーハーな気持ちでビルの階段を上り入店した。
扉を開けてお店に入った瞬間の印象は、「静かな空間」だった。
けして店内が閑散としているという意味ではなく、お客さんで賑わっているのに、何故か吉祥寺の喧騒を忘れさせる落ち着いた空気が店内にはあった。
テーブルや棚、床の深い木の色と、壁の少しくすんだ白い色に長い年月を感じる。
奥には窓があって、通りを歩く大勢の人の姿を見下ろすことができた。窓際の席に座る。小さめのテーブルに、小さなお花が生けてあった。
メニュー表には様々な種類の珈琲が並んでいる。ブレンド珈琲を注文した。
珈琲は注文のたびその都度一杯ずつ煎れてくださっていた。その頃は珈琲をブラックで飲むことが苦手だった。でもせっかく喫茶店で飲むのだから……と、少し無理をして格好つけてブラックのまま飲んでみた。
苦味よりも、瑞々しさを感じる爽やかな風味に、とても驚いたことを覚えている。
デザートはケーキやババロア等種類があった。メニューには写真が載っていて、どれもとても美味しそう。一番好きなお菓子であるプリンを見つけたので注文した。
普段家で食べているつるつるで柔らかなものとは違い、生地は少し固め。甘さは控めで卵の味を強く感じる。キャラメルはほろ苦く、不思議に懐かしさを感じて、美味しい。
静かな空気が気に入って、それからは一人でもよく訪れた。美容室に行った帰りや、読書をしたいとき。特に理由がなくても、そっとお店のドアを開けに行った。
何年かして、このお店に初めて一緒に訪れた恋人とお別れをした。
失恋し、ひどく落ち込み、食欲がなくなった時期。突き動かされるようにここの珈琲が飲みたくなった。一緒に座ったテーブルに座る。静かな店内で、過ぎた時間を思い出す。
珈琲の香り、お店の匂いが思い出の輪郭を鮮明にしてくる。じわりと目頭が熱くなった。
しっかりとカップの取っ手を持ち、珈琲の香りを思い切り吸い込んでから、ごくりと飲んだ。
ストンと何かが胸に落ちるような、苦々しくない、初めて飲んだ時に感じた味と同じ、瑞々しい爽やかな味だった。
その勢いのまま、プリンをスプーンでえいっとすくい取って、口に入れる。いつもより甘く感じる。どうしてだろう。何度も食べているのに今まで以上に美味しく感じた。
この世の終わりのような悲観的な気分とひととき離れ、珈琲とデザートの味を交互に楽しんだ。
美味しいと感じられることは幸せなんだ。
そういう単純な幸せを感じられる心を、この場所で取り戻す事ができたように思う。
珈琲を飲みおわった頃には、店内に流れる音楽がよく聞こえるようになっていた。
これからもきっと何度も、一人ひっそりと心を取り戻しに行くだろう。