特に2020年4月、初めての緊急事態宣言が発令された時が辛かった。都会のど真ん中が地方のシャッター商店街となり、どこへ尋ねようが一杯の酒も飲むことが出来なかったのだ。
宣言は全国に広がり、期間延長をしてやっとのことで解除になったのが5月末。私は荻窪にある酒場へと訪れた。
久しぶりの酒場の前に立つと、少し震えるのが分かった。恥ずかしながら〝緊張〟しているのだ。暖簾を引く手が中々伸びなかったが、中から聴こえてくる酒盛りの声に勇気を貰って中へと入った。
「いらっしゃいませ」
なんて、久しぶりに聞く言葉だ。その言葉で、私は一瞬にしてここの〝客〟となったのだ。うれしい……ムズムズする口元を抑えながらカウンターへ座った。そして、目の前にあったメニューを手に取った。
「あの、生ビール……ください」
恐る恐る、女将さんへ言った。「すいません、アルコールは……」と、断られるんじゃないかと怯えていたのだ。
「はい、生ひとつね。お待ちください」
うわっ……生が、生ビールが、頼めちゃったよ! 心の中でガッツポーズをとった。本当に何でもないことなのだが、本当にうれしかった。生ビールはすぐに目の前に現れ、おもむろにグラスを口に運んだ。
ゴクッ……ゴクッ……ゴクッ……、掌に感じるグラスの冷たさ、生ビールではないと味わえないコクとのど越し。一気に半分まで飲み、ゆっくりとカウンターにグラスを戻す。
「……旨いなぁ」
図らずも、言葉が漏れた。あれだけ飲みに行っていた酒場を、二か月近く耐え忍んでいたのだ。感情が高まり、ちょっと泣きそうになった。やばいな……ええい、早く料理を頼もう。涙を堪えて、メニューをもう一度手にしたときに、ふと気がついた。〝メニュー〟があるという、うれしさに。
宣言中は毎日のように家で酒を飲んでいたが、そこにメニューというものはあり得ない。酒場に行って、まずはメニューを手に取り、自分の好きな酒やおすすめ料理を選べるということは、なんて当たり前なことで、そしてなんて〝しあわせ〟なことなのだろうか。
怒り、恐れ、悲しみ……色々なマイナス感情を経て、最後に感じたのが〝しあわせ〟な感情だったのだ。私は女将さんに大好物の料理をいくつか頼み、その間に生ビールを飲み干した。
この時の〝しあわせの一杯〟を、私は絶対に忘れることはないだろう。
取材・文・撮影=味論(酒場ナビ)